Subject:
コリント人への手紙第二「恵みのわざ」
From:
Shinya Kanno
Date:
2010/12/21 15:22
To:
saiwainet

「聖徒をささえる交わりの恵み」 菅野審也 2010.12.21

「献金」ということばは、聖書全体で12箇所で使われているが、そのうちの半分(6箇所)は、この手紙と、前の手紙のコリント人への手紙第一である。また、手紙では、「献金」ということばそのものは、この二つの手紙においてでしか使われていない。パウロはそれほどまでに、コリントの教会に対して「献金」についての教えを大切にしていたのである。特にコリント人への手紙第二においては、コリント人への手紙第一では直接取り扱っていたのは、16章1-3節のみであったのに対して、8章と9章という、前半の終わり、また後半の始まりの段落で、より長く、そして具体的に取り扱っている。では、コリントの教会において、「献金」をするという使命はどのようなものだったのだろうか。

パウロが8-9章で「献金」についての話をするにあたって、マケドニヤとアカヤという二つの具体的な場所の名前を挙げている。これには、一つの大きな理由があった。それは、「コリントの教会をもう一度奮起させるため」ということである。これが、ここでパウロが献金について取り扱っている一番の理由ではないかとも考えられる。なぜなら、この当時、コリントの教会では献金が熱心に行なわれていないという問題があったからである。彼らはもともとは、非常な熱意をもって献金を行なっており、多くの人を奮起させるほどであったが
(9:2)、貧しさや、キリストの御名のために受ける苦しみのゆえに、「献金」という大切な働きを、以前のように熱心にはやらなくなってしまっていたのである。

ここで、挙げられているマケドニヤとアカヤというペアも、コリントの熱意により奮起せられた多くの人のうちに含まれている人々で、彼らは、コリントの教会の熱意を知って、それに習い、献金を熱心にするようになったのである。ローマ人への手紙15章26節では、パウロに「マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。
」と言われているほどである。しかし、この熱心さももともとはコリントの教会が模範であったのである。それにもかかわらず、模範となったコリントの教会では、それが以前のようではなくなっていたのであって、パウロは、コリントの熱意について、人々に誇ったことが無駄にならないようにと、この問題を取り扱うことを決めたのである。また、この問題を取り扱わなければ、熱心に行なっているマケドニヤの人たちが恥をかくことにもなってしまうのであった
(9:3-4)。

そこで、パウロはまず、コリントの教会に対して、「マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを知らせている。」。すなわち、マケドニヤの教会が激しい試練や、極度の貧しさの中にありながら、満ちあふれる喜びのゆえに、自ら進んで、その力に応じてささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと熱心に願ったということである(8:1-4)。ここで、パウロは何よりも喜んでささげることを強調している。なぜなら、喜んで与える者を神様は愛してくださるのであって(8:7)、貧しさの中にあっても、喜んで与えたいと思う者には、恵みと義の実とで満たしてくださるからである(8:8,
8:10)。

このようなわけで、献金をするとは、神の恵みのわざであることがわかる(8:6)。この恵みのわざを熱心に行なうことによって、ただ聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝にも満ちあふれさせられることになるのである(9:12)。そして、このわざを証拠として、キリストの福音に対して従順であることが表され、人々が神をあがめるようにもされるのである(8:19,
9:13)。「献金」は一見小さなことのようにも見えるが、それほどまでに大きく、また非常に大切な働きなのである。このことを、パウロ自身、命令するだけでなく、まず自分で熱心に行ない、人々の模範として示してきたのである。

「私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」使徒の働き20章33-35節

-- Shinya Daniel@KannoFamily mailto:+shinya@kanno.com :)