Subject: コリント人への手紙第二「キリストの栄光」 |
From: Shinya Kanno |
Date: 2010/12/31 11:59 |
To: saiwainet |
「十字架と復活の栄光」 菅野審也 2010.12.31 「栄光<1391>」ということばは、コリント人への手紙第二において19回も使われており、他のどの手紙よりも多く使われている。この数か らしても、この手紙においてキーワードとなっていることは明らかであると言えるだろう。では、自分を神のしもべとして推薦しているパウロは、コリント人へ の手紙第二を通して、何を栄光だと教えているのか。事実、多くの苦しみを受けて来たパウロにとって何が栄光だったのだろうか。 「栄光とは 何か。」このような問いに答えようとするならば、やはりまずは「キリストの十字架と復活」について考えなければならないものである。パウロは、 3:1-6:10の段落で復活のいのちについて、11:1-12:18では十字架の死について取り扱っているわけだが、特に、十字架について取り扱ってい る11章からの段落では、弱さを誇ることについて強調している。なぜなら、十字架のような、この世では、弱さであり、恥とされている、この苦しみにこそ、 本当の栄光が隠されていると考えているからである。パウロはこの弱さのゆえにこそ、強くされているのであって、キリストが十字架上で私たちのために死んで 下さったのにならって、多くの苦しみを受け、そして、死にまで直面したほどである。 これほどまでに、パウロが十字架の死にまで従うことが できたのは、これが十字架だけで終わらないということを知っていたからであったということも言わなければならない。キリストご自身が、十字架の死で終わら ず、復活されたように、自分もまた復活させられて、完全な者へと変えられるということを信じきっていたのであった。もし、十字架で終わったのであれば、そ れはただの弱さであり、何の栄光も現されることはなかった。それは、ただ死に負けたということであったのである。しかし、復活されたことによって、十字架 の苦しみが無駄にはならず、かえって栄光へと変えられたのであって、キリストの十字架に従った者たちにとっても望みの栄光となったのである。 このようなわけで、福音を宣べ伝える使命を与えられている私たちも、この十字架と復活の栄光をを望みとして日々奮闘しなければならないである。そこで、私たちが、パウロやその他使徒たちの模範にならい、この働きを全うする時には、私たちを通しても栄光を現してくださるのである。キリストは私たちをこそご自分の栄光としてくださったのである(8:23)。-- Shinya Daniel@KannoFamily mailto:+shinya@kanno.com :)