Subject:
77:10についての羊本の訳(ケイヤ)
From:
Date:
2002/03/07 12:22
To:
<saiwainet@egroups.co.jp>

こんにちは、+カンノケイヤです。

Psalms Volume 2 by James Montgomery Boice 641ページの10節について訳しまし
た。

10節の訳と解釈は難しい。なぜなら、この節にははっきりしない2つの言葉があるか
らである。New International Version で「訴え」(それは私の訴え)と訳されてい
る言葉は「嘆願」または「嘆願する」と訳すこともできる。またこれはしばしば「苦
しみ」、「傷」、「悲痛」と訳せるかもしれない。同じように、「年々」も「年々」
か「変わる」とも訳せる。これらの変化によって10節の意味は4つ考えられる。

1. それは私の「嘆願」:いと高き方の右の手の「年々」。
2. それは私の「衰え」:いと高き方の右の手の「年々」。
3. それは私の「衰え」:いと高き方の右の手が「変わった」。
4. それは私の「嘆願」:いと高き方の右の手が「変わった」。

それぞれの意味はなりたつものである。1つ目の意味は現在のうなだれている状態の
中で、詩人は神の昔なさった、恵み深いことによって、自分で自分を元気づけて、嘆
願している。2つ目の場合は、彼は彼の苦しみが私たちが最初のほうの段落で見たよ
うに、昔なさったが今はなさっていないということを思い出す所から来ると説明して
いる。3番目の見方は2番目と似ている。これはアサフの悲痛が、神がやってくださる
ことは、昔なさったことと違うということから来ている。4番目の意味はあまり良く
ないが、これは神が方向を変え、あわれみを無関心にしたので、神はそれをもとに戻
して、好意を持ってくださるという意味になる。彼はこれを確信することを土台にす
ることによって望みを持っている。

New International Version を読むと2つのポイントによってバランスをとっている
ことが分かる。1つ目は10節で「年々」と訳されているヘブル語は5節にもでてきて、
5節の「昔の年々」は同じ節の「昔の日々」並行している。2つ目は10節から詩人は神
が昔なさったことを思い出している。このポイントで詩人が昔のことを思い起こして
いるのは悲痛からではなく、霊的な成長と慰めを土台としてである。

11節の「覚える」という言葉は導入のあとの3節と6節にでてくる。最初のほうで彼は
昔のすばらしいことと今の大変な状態を比べている。この段落で彼は神とすべてを変
えてくださる神のわざを思い出している。

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+カンノケイヤ@カンノファミリー
mailto:keiya@kanno.com
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