Subject:
From:
"Ken" <ken@mikunikensetsu.com>
Date:
2002/04/04 14:01
To:
<saiwainet@egroups.co.jp>

こんにちは、献です。

 

オルデンさんの詩篇81篇についてのところを翻訳しました。

 

この詩篇の3節を見ればこの詩篇がイスラエルが毎年行っていた三つの祭りのひとつで使われていたことがわかります。5節でヨセフについて書かれているので、この詩篇はイスラエルが北と南に別れた時(922-722B.C.)に北側で書かれた詩篇だという学者がいます。この詩篇は5節で二つに分かれています。最初の4節半では賛美を勧める訓戒があって、この詩篇が使われる機会が書いてあります。5節の「私は、」から最後までは神の言葉を伝えるような形になったいます。と言うのは、詩人は神が話しているかのように詩篇を書きます。気づけば、ここで「私」と言う単数形の代名詞が使われていることがわかります。ですから、ここの内容は神が話していることであって、人間が話している言葉ではありません。

詩篇8篇と同じようにこの詩篇は「ギテト」に合わせられています。これは何を意味するかははっきりはわかりませんが、ガテの住民かそこでの出来事につなげる人もいます。最初の三節に民を祭りを祝うように命令する三つの命令形の動詞があります。この面でこの詩篇は「賛美詩篇」のカテゴリに入っていて、詩篇111以降の詩篇に似ています。ただ、この詩篇には「ハレルヤ」がありません。楽器については詩篇150篇にもっと書いてあります。今のところは、ここに記されている楽器は何なのかを頭に入れ、どういう音を作るかを想像してみてください。弦楽器は弓で弾かれたのではなくつま弾きされていました。ここにある「タンバリン」は本当はTimbrelと言う小型の太鼓でした。三節の角笛はすべての楽器と一緒にあったかどうかはわかりません。民数記10:10で角笛は礼拝者を呼ぶ楽器であったり、第一テサロニケ4:16に書いてあるように、イエスが再び下ってこられる時に死んでいる信者と生きている信者両方を呼ぶ楽器であります。イスラエルは太陰暦を使っていたので、彼らの祭りは月相と時間が合うのです。ですから新月が月の初めなのです。この3節での平行は聖書の中でここにしかありません。King James Versionでは「決められた時」としてここを翻訳しており、もっと新しい翻訳を見れば、「新月」として翻訳しています。

4-5節で詩人が言っている「おきて」と「さだめ」は出エジプト記23:14-19や他の祭りについてのことを記している箇所に書いてあります。ある人は5節は刈り入れの祭りだと言いますがこれは多分、過ぎ越しの祭りでしょう。なぜなら、この詩篇は収穫の後の感謝よりもエジプトから助けられたことに焦点を合わせています。

この詩篇の分け方について問題が何個か出てきます。5節の後半は6節につながっているが、5節全体が4節につながっていると言う人もいます。もしこうであれば、5節の後半で語っているのは神ではなくて詩人であることになります。詩人は神の言葉を聞いて理解することができないと言う意味になります。もう片方の分け方を見れば、神が外国の言葉を耳に入れています。多分、ご自分の民を迫害しているエジプトの言葉を耳に入れているのでしょう。こうなりますと、もう一つの問題が出てきます。ここで神がその言葉を理解できないのか神の民が理解できない言葉を耳に入れているのかが、問題になります。神はご自分の民を選ばれて愛しているのでイスラエルの言葉しか聴かないで他の国の言葉を理解しないと言う意味かもしれません。

多くの注解者は神のが話す言葉は少なくとも6節から始まっていると議論しています。神はイスラエルのためにご自分が行った力ある御業を話していると言います。6節ではエジプト人がイスラエルの民に強制労働させたことを話してます。詩人は出エジプトの話を言った後にすぐ荒野でさまよっていた民の気性を試した試練について話し始めます。特にメリバで(出エジプト17:6-7)イスラエルを救い主神により頼ませた試練について話します。ここでこの節は「セラ」によって閉められます。7節で神が自分の民に与えた訓戒を紹介しています。通常、こういう詩篇では詩人が神が耳を傾けるように頼むのですが、この詩篇では反対のことが8節で起きています。ここでイスラエルの宗教のユニークなことが書いてあります。イスラエルの宗教は固く一神教であることです。これは民の耳を要求している申命記の6:4にも書いてあります。

そこで9節では、十戒の一番基本を否定的に言います。その後、詩人は再びイスラエルの出エジプト、イスラエルを国として建てた偉大な御業について書きます。今日に至るまで過ぎ越しの祭りを祝う時に出エジプトに焦点を合わせて色々な面からこの偉大な救いを見ます。

出エジプトについてまた語り始めた詩人は11節でネガティブな話に入ります。ここから終わりまでは想像の論理的な発達があって、建設的な豊富の約束で終わります。想像の発達は次のように続きます。

1.神はご自分の民を救った(10)

2.民は感謝せづに反抗した(11)

3.神は御民を彼ら自身の意思に任せた。(12節)

4.神は御民が戻ってきてご自分に従うことを希望する。(13)

5.彼らがそうするならば神は彼らの敵を倒して、最良の食物を豊かにあげる。

            14-16節)

このわずかななん節はいろんなクリスチャンの人生を注解しています。神は私たちの救いのためにあれだけ多くのことをしたのに私たちは神を無視してしまいます。神の一人が私たちのために命を落としたのに私たちは神のために命を捨てることをしようとしません。私たちは神の古い民が持っていた聞こえない耳、かたくなで自己中心な心を持ってしまいます。神は私たちが彼の御霊を悲しませないようにどんなに求めていることでしょう!神様はどんなに私たちを愛して、私たちの悩みを消して、私たちに霊的な穀を蜜を与えたいことでしょう!神はどんなに私たちを養って、満ちたらせたいことでしょう!だが、私達は神のご意志に従って歩こうとしません。歩こうとしているのですか?