Subject:
RE: [saiwainet] 詩篇32篇8節は、ダビデが言った、それとも、神様が言った?
From:
"Saito@COSMOS" <cosmos@ca2.so-net.ne.jp>
Date:
2001/04/20 3:00
To:
saiwainet@egroups.co.jp

斎藤です。
かんのパパさん。いつもたくさん解説してくださってありがとうございます。
私は「主がダビデに言った」と思っていたのですが、
いろいろな解説を読み、調べ物をしていたら、ちょっと考えが変わってきました。

kanno@kanno.comさん:
> さあ、どちらでしょう。
> どちらもありうると思うのですが、「神様が言った」ほうかなあ?
> 
> ■ ダビデが民に言った
> 
> 白本:罪赦されたダビデが次になすべきことは、何か。罪赦された罪人として、ダビ
> デは人々に真の悔改めを勧めている。詩篇34:11や詩篇51:13を考えるとダ
> ビデのことばと理解したい。もちろん、それは預言者とも言うべきダビデを通しての
> ことばでもある。

そう。この解説にある詩篇51篇なのですが、ちょっと気になっていたのです。
今週、「3節:骨」と「11節:喜び楽しめ」を調べていると、どちらにも該当する
のが51篇なのです。
  51篇8節 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。
          そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。
ただし、主が楽しみと喜びを聞かせてくださるように祈っているので、
ちょっと違うかなとも思っていたのですが、上記の解説を読んでいて
もう一度51篇を読み返すと、
  51篇13節~15節
    13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。
       そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
    14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。
       そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
    15 主よ。私のくちびるを開いてください。
       そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。
明らかにダビデ個人の罪の悔い改めの詩篇にも、民に悟りの道を教える祈り
が出てきているではありませんか。
そして、もう一つ調べていた「4節:御手」の箇所をもう一度調べ直すと、
  1サムエル12:15
     イスラエルが王を求め、主がサウルを王とされたとき、
     主はサムエルを通して罪の悔い改めを勧める。
     サムエルは23節で「私はあなた方に、良い正しい道を教えよう」と語る。
  2サムエル24:14、1歴代誌21:13
     ダビデが人口調査の罪を犯した時、主はガドを通して罪を教え、
     祭壇を作るようにされた。そしてダビデは神殿を建てる準備を始め、
     ソロモンに主の言葉を告げ、悟りを与える。
  詩篇75:8
     9節でダビデは、
     しかし私は、とこしえまでも告げよう。ヤコブの神を、ほめ歌おう。
     と語る。
  詩篇118:15、16
     そして17節で
     私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。
     と語る。
  箴言21:1
     王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。
     うーんまさしく。

こうして見ていくと、かんのパパさんが言われるように、

> 1)サムエル記の記録の中で、ダビデの悔改めには、いつも、「助言者」がいる。
> 助言者に教えられれ、または、試されることによって、神の声に聞き従うかいなかを
> 問われる。
> 4)他の悔改めの詩篇などを見ると、罪の赦しと、恵みによって道を教えられる話
> は、よくいっしょに出てくる。

助言者は、罪を教え、悔い改めを勧め、悟りを与える。
特にダビデは、王として、預言者として特別に煉り聖められ、
民を教え導く者としてもちいられている。
ダビデは主の手の業を見る時に、悔い改め、民とともに喜び、楽しみ、
そして民を教え、悟りを与える。そしてそれを神に宣言する。
と考えるべきではないかと思うようになりました。

そうすると詩篇32:8-9の言葉は、ダビデが民に言った言葉ではないでしょうか。
悟りを与え、行くべき道を教え、目を留めて、助言を与える。
「目を留めて」はよく分かりませんが、他の3つは詩篇51篇他の
箇所に通ずるのではないでしょうか。
箴言21:1にあるように、ダビデ王の心は主の手の中にあって
エデンの園から湧き出る水が地のすべてを満たすように、
主の恵みと悟りを民に与えている(与えずにはおられない)のでは
ないでしょうか。
(「幸いなことよ」の語りかけは、はまさしく箴言ですよね。)

昨日の松田さんの投稿の返信で、8節の「あなたがた」の訳について
「あなた」の方が良いのではと書きましたが、
ダビデが民に言ったと言うことを念頭に置くと、確かに意訳的ではあっても
「あなたがた」でも良いと思うようになりました。

みなさんはどう思われますか?


余談ですが その1
  「骨」と「喜び楽しみ」を調べて行くと、エバが作られた時の主の恵みと
   アダムの喜びに行き着くということを再発見しました。意外とさらりと
   読んでしまっていた箇所が、詩篇の学びを通して深く味わえますね。)

余談ですが その2
  詩篇118は、詩篇30-32に非常に関連性が高い詩篇だと思いました。