Subject: 水曜日の家庭礼拝ノート(ケイヤ) |
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Date: 2002/08/14 13:18 |
To: <saiwainet@egroups.co.jp> |
こんにちは、+Keiya Kannoです。
水曜日の家庭礼拝をまとめました。
この詩篇を読んで疑問に思った箇所は11節である。
光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のた
めに。(11節)
この文章はどのようなことを言いたいのかはよく分からないが、いいことを言ってい
るのは確かである。
この文章をよく知るためにはまずこの詩篇の中で関連している言葉を見なければなら
ない。その中でも今日は「光」と関連する言葉を見た。
まずそのまま「光」に関係する言葉は2節の雲(雲は十戒が与えられた時や、神殿が
建った時に栄光の雲と呼ばれ、光っていた)や、2節の光の反対の暗闇、3節の火、4
節のいなずまなどである。
光はこの詩篇のテーマと関係ある言葉とつながっている。この詩篇は「主は王であ
る」というところから始まって、2-5または6で神のさばきがある。それで光と関係す
ることばはさばきであることが分かる。
日本語でも悪が暴露された時、「明るみにでた」という言い方をする。また悪者は罪
を犯す時に隠れて、暗い所で行なう。暗い所では見えない。しかし、神が見るとすべ
ては明るいのでばれてしまう。
山上の説教には「体の明かりが目である」と書いてある。イサクは年老いていて目が
かすんでいたと創世記にあるが、そのためにさばきを間違え、エサウを祝福しようと
してしまった。反対に彼の息子ヤコブは同じように目が悪くなったけれども、マナセ
とエフライムを祝福する時にまちがえなかった。またモーセは年老いても目がかすま
ずに、最後までイスラエルを導いた。
このように光とさばきはつながっている。
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E-mail: keiya@kanno.com
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