Subject:
From:
+hiromimama@kanno.com
Date:
2002/11/19 14:32
To:
saiwainet@egroups.co.jp

こんにちは、塩光献です。
110篇の7節が結構難しいので、色々な注解書を見てみました。

この箇所で、一番使われている説明は、7節を師士記のギデオンと結び付けることです。メシヤは、ギデオンの戦いにふさわしい勇士たちのようだ。
戦っている間に休んで、水を飲んでいるという注解書もある。(白本)水を飲んで、再び頭をあげられる。
勝利を獲得した後に乾きを道のほとりの水でいやしている(第一サムエル14:24-30)という注解書もある。(緑本)
この道のほとりにある水から飲んでいるのは、戦いでほんの少しも休まず戦っているという注解書もある。メシヤは次の戦いに行く道のり、で水を少し飲むぐらいで次の戦いに進んでゆく。(スポルジョン)ここの勝利はキリストの再臨だといっていう。最初に人間として来られたイエスは私たちの重荷を負ってくださって、それから天に昇られたが、二度目に来られる時は、簡単な勝利を裁きにおいて得る、とスポルジョンさんはいっています。

もう一つ広く使われている説明は、この「道のほとりの流れる水を飲まれよう。」という所はメシヤが自分を低くしているという注解書も少なくはない。
この箇所をピリピの2:8~9とつなげる人は多くいます。道のほとりの水を飲むほど、メシヤは貧しい者になる。そのため、メシヤは後であげられるのです。(Myles Coverdale)
この箇所をイエスの受難とつなげる人もいます。この水は苦い「マラ」の水のようであって、神の正しい怒りを表すものだと言っています。この水は主の道にあったといっているのです。この道はイエスが歩まなければいけなかった道である。なぜ歩まなければいけなかったと言うと、人間の罪の為にこの道を歩まなければいけなかってのです。その人間の罪はその流れている水なのです。イエスはこの水、御父の怒りの杯を飲んだ為に高くあげられたと言うことです。(John Prideaux)

以上です。