Subject:
詩篇112篇 111篇と112篇のつながり
From:
"Miwaza Kanno" <miwaza@kanno.com>
Date:
2002/12/04 12:36
To:
<saiwainet@egroups.co.jp>

みーちゃんです。

111篇と112篇のつながりのまとめです。

■二つの詩篇の主語:

111篇の主語は『主』で112篇の主語は『直ぐな人』です。ですから、対比する
ときは111篇は『主が~』となるのです。また、112篇『直ぐな人は~』になり
ます。では、この二つがなぜ対比できるのでしょう?

■なぜ『主が~』と『直ぐな人は~』が対比できるのか?:

それは、主が行っていることは正しいことであり、直ぐな人というのは、主が行って
いる正しいことを行うので、同じ事を行っているということになるのです。だから対
比できるのです。ということで、神の正しい行いをする人が直ぐな人なのです。です
から、英語でも『主』は『God』で『直ぐな人』は『Godlyness』なのです。

■詩篇111篇と詩篇112篇のテーマが出てくるストーリーとは?:

それは、出エジプトのみわざのストーリーとAD70年のストーリーです。それでは、
どうやって対比すればいいのでしょうか?

■ほかのストーリーと対比するには?:

そのためには、だんぺん的に対比してはいけないのです。というのは、ただことばと
ことばを「あっ光、ここにも光」というふうに比べてはいけないということです。

■光とはなにか?:

さきに反対の意味である暗闇について説明します。暗闇というのは112篇の中で、
正しいさばきが行われていない状態を表しています。その反対が光の状態なのです。
というのは、暗いところで悪が行われていたが、光がきて悪があらわになり正しいさ
ばきが行われたといことなのです。それは、AD70年のさばきでも見られます。

■AD70年のさばき:

AD70年のさばきのときに、泣いていた者も喜んでいた者もいました。その泣いてい
るものとは、さばかれて捨てられた者で、喜んでいる者はそれまで、迫害されもう神
は見てくださらないと思っていたのに、正しいさばきが行われて喜んでいる者でし
た。これは、ラザロと金持ちのたとえに似ています。

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 Miwaza Kanno
  miwaza@kanno.com
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 God bless you!(^^)/~~~
 !かにかに!かにかに!y(^^)y
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