Subject:
詩篇119篇 幸いと忌まわしいもの
From:
"+mikuni@kanno.com" <mikuniML@kanno.com>
Date:
2003/01/23 12:43
To:
<saiwainet@egroups.co.jp>

こんにちは。菅野みくにです。

マタイ5章の8つの幸いとマタイ23章の8つの忌まわしいものの対比を見ました。

■「8つの幸いなもの」 [8 beatitude of Matthew] マタイによる福音書5章3
節~12節

■「8つの忌まわしいもの」 マタイによる福音書23章13~36

・マタイによる福音書5:3 ⇔ マタイによる福音書23:13
山上の説教のほうでは、貧しいものには天の御国が与えられると書いてあるが、23
章のほうでは律法学者、パリサイ人が、人々から天の御国をさえぎっているという。

・マタイによる福音書5:4 ⇔ マタイによる福音書23:14
山上の説教のほうでは、悲しむものは慰められると書いてあるが、23章のほうで
は、律法学者、パリサイ人たちは、貧しいもの、悲しむものたちのことを慰めず、か
えって、いじめている。

・マタイによる福音書5:5 ⇔ マタイによる福音書23:15
山上の説教のほうでは、柔和なもの(へりくだっているもの)は地を相続すると書い
てあるが、23章のほうでは、律法学者、パリサイ人たちは、改宗者を探し回り、改
宗者がいると、悪いゲヘナの子にしてしまう。ここのつながりがよく分かりません。

・マタイによる福音書5:6 ⇔ マタイによる福音書23:16-22
山上の説教のほうでは、義に飢え渇いているものが、満ち足りると書いてあるが、2
3章のほうでは、律法学者、パリサイ人たちのところは、誓いについていっている。
ここもどのようなつながりなのか分かりません。誓うということと満ち足りるという
ことにはどのような関係があるのでしょうか。

・マタイによる福音書5:7 ⇔ マタイによる福音書23:23-24
山上の説教のほうでは、あわれみ深い者があわれみを受けると書いてあるが、23章
のほうでは、律法学者、パリサイ人たちが、食べ物の十分の一を納めているが、彼ら
は、正義も、あわれみも、誠実をもむだにして、このようなやるべきことをやらず、
あわれみを与えていない。

・マタイによる福音書5:8 ⇔ マタイによる福音書23:25-26
山上の説教のほうでは、心のきよいものは神を見ると書いてあるが、23章のほうで
は、律法学者、パリサイ人たちは、杯や皿の外側はすごくきれいにきよめ、その中に
は、強奪と放縦でいっぱいになっている。

・マタイによる福音書5:9 ⇔ マタイによる福音書23:27-28
山上の説教のほうでは、平和をつくるものは、その人は、神の子どもと呼ばれると書
いてあるが、23章のほうでは、律法学者、パリサイ人たちは、外側が美しいように
見えるが、その中はあらゆる汚れたものでいっぱい。その側は人に美しく見えても、
その中身は偽善と不法でいっぱいである。ここのつながりがよく分かりません。平和
をつくるものとパリサイ人の心の中とは。

・マタイによる福音書5:10-12 ⇔ マタイによる福音書23:29-36
山上の説教のほうでは、義のために迫害されているもの、ののしられたり、悪口雑言
を言われたりするものは天において報いが大きい。昔の預言者たちもそのように迫害
されていたと書いてあるが、23章のほうでは、律法学者、パリサイ人たちは、預言
者の墓を建てて、義人の記念碑を置いている。

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