Subject:
詩篇135篇 詩篇115篇と対比
From:
"+mikuni@kanno.com" <mikuniML@kanno.com>
Date:
2003/05/13 11:51
To:
<saiwainet@egroups.co.jp>

こんにちは。菅野みくにです。

詩篇115篇に似ているところがたくさんあったので、対比してみました。

両方の詩篇は主を御名をほめたたえている、主のみなに栄光を帰しているところから
始まっている。主の御名をほめたたえるということは、詩篇135篇のひとつの大切な
テーマである。「御名」という言葉は詩篇135篇に4回も出てきている。

詩篇115篇、詩篇135篇には偶像の話が出てきている。詩篇135篇には偶像のできない
ことが4つかかれている。しかし、詩篇115篇には偶像のできないことが7つも書かれ
ている。詩篇115篇では、口があっても語れない、目があっても見えない、耳があっ
ても聞こえない、鼻があってもかげない、手があってもさわれない、足があっても歩
けない、のどがあっても声を出すことが出来ないという7つがでてくる。

詩篇115篇、詩篇135篇は両方とも、「~よ」という言い方が出てきている。しかし、
面白いところが一つある。詩篇135篇には、「レビの家」が入っているところであ
る。詩篇115篇では、「イスラエルよ」、「アロンの家よ」、「主を恐れる者たち
よ」という三段階である。しかし、詩篇135篇では、「イスラエルの家よ」、「アロ
ンの家よ」、「レビの家よ」、「主を恐れるものよ」の四段階になっている。この、
「~よ」の言い方は詩篇118篇にも出てくる。

詩篇135篇、詩篇115篇には、「ハレルヤ」という言葉が出てきている。詩篇115篇は
「ハレルヤ」で終わっている。詩篇135篇では、「ハレルヤ」で始まって、「ハレル
ヤ」で終わっている。それで、詩篇135篇は「ハレルヤサンド」と考えてもよいのか
な?「ハレルヤサンド」とは、「ハレルヤ」が、サンドイッチののパンのように、初
めと終わりにあるということである。

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