Subject:
詩篇141篇の菅野パパの構造の説明
From:
"+shinya@kanno.com" <shinyaML@kanno.com>
Date:
2003/06/26 12:35
To:
<saiwainet@egroups.co.jp>

+ちゃんくんです。

詩篇141篇の菅野パパの構造の説明を書きました。
菅野パパの構造は目には目というテーマになっている。
これは先週の詩篇の構造と同じテーマである。
 
菅野パパの構造は大きく分けると1-4と5-6と7-10になっている。
 
構造では自分をさばくならさばかれないというテーマが強調されている。
自分をさばくならさばかれないのテーマはせいさんしきである。
 
穴に落とされたものはきよいものである。
悪者は神様に穴に落とされたのできよい。
(民数記14章=コラ 2サムエル12章=ダビデ)
 
民数記ではコラの者達はイスラエルの中でも祝福されているのに、
祭司の食事を要求したので地上の口は彼らを飲み込んだ。

サムエルの方ではダビデは多くの物を神様から与えられていているのに、
ダビデはヘテ人ウリヤの妻バテシェバをめとった。
それでダビデは神にさばかれて、自分の罪を悔い改めたのできよくなった。
 
141篇の詩人は自分を穴に落とし、さばいたので、(苦い
詩人はあまいことばを言うようになった。(喜ばしいことば
詩人は自分をのろったのでこのようになった。
悪者は詩人をバカにしていたので穴に落ちた。
悪者は神様によって穴に落とされた。詩人とは心がまったく違う。
 
神様は詩人の祈りがきよいので聞いてくださる。
(詩人の祈りは心が砕かれている)
祈りがきよいのは全てを捨てて神様中心としているからである。
自分を憎んで自分の十字架を負うのでなければ神様に憎まれる。
(ルカ14:26-27・・・・)   ↑
(神様の聖なる民としてふさわしくない)
 
せいさんしきとはのろいの誓いである。
詩人は自分をのろっているので、神様にきよめられる。
詩人は自分のことを自分でペンペンしている。

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