Subject:
詩篇144篇と詩篇18篇の対比(ケイヤ)
From:
Date:
2003/07/15 14:50
To:
<saiwainet@egroups.co.jp>

こんにちは、+KannoKeiyaです。

詩篇18篇は144篇に似すぎているので、テーマを比べてどのような意味でそのテーマ
が使われているのかを見ました。

●主は岩

両方の詩篇でも主がどのような御方であるのかということを告白している所から始
まっている。

直接同じ言い方は「とりで」、「身を避ける~」、「盾」、「やぐら」の4つであ
る。18篇のほうで興味深いのはこれらの言い方の最後に「ほめたたえられる方」とい
う言い方があることである。その前まではどのようなことをしてくださる御方なのか
が書かれていたが、ここだけ主は賛美を受けるにふさわしい御方であるということが
言われている。144篇では最初に「ほむべきかな」という言い方から始まっていた。
このように岩である御方は賛美されるべきなのである。

●主が来られる

主が来られるとはさばきくために来るのである。バベルの塔の時も主は彼らをさばく
ために来られたのである。主は来られる時に被造物は恐れる。山々は震え、主は口か
ら火、鼻から煙をだしておられた。そして雷鳴によって敵をさばかれる。

●いと高き所からの救い

このように敵をさばかれたあと、主はいと高き所からダビデを救い、御手によって引
き上げてくださる。これは18篇と141篇にある全く同じテーマの1つである。

●私を鍛えてくださる

両方の詩篇でも詩人は戦っている。彼は主によって力を得て、戦っている。18篇では
手と腕を鍛え、144篇では手と指を鍛えてくださっている。

直接「鍛える」という言い方はないが18篇で主は足も強くし、よろけないようにして
くださっている。そして反対に敵は滅ぼされ倒れてしまう。

●主の手

主は詩人の手を強くしてくださるだけでなく、ご自分の右手によって詩人を支え、敵
から助けてくださる。

●すぐになくなる

144篇で詩人は人間はすぐになくなり、見えない、影、息のようであると告白してい
るが、詩人が滅ぼした敵はちりのようになって吹き飛ばされている。また144篇のダ
ビデは祝福されて、彼の子孫は若木のように育ち、柱のように堅く建っている。

●外国人からの救い

主は詩人を外国人が囲んでいる所から解き放ち、彼らの中から引き上げてくださる。

18篇では外国人の行動が書かれていて、主とともに戦っているダビデを恐れて、彼に
仕えている様子が書かれている。

●王の救い

18篇の結論は主の油をそそがれた王、つまりダビデと彼の子孫を救い、彼らに恵みを
与えてくださった。144篇でも主は王たちに救いを与えてくださり、ダビデを敵から
救ってくださっている。この箇所から144篇の王たちとはいろいろな王たちではな
く、ダビデとその子孫を助けてくださるということが分かる。

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+KeiyaKanno
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