Subject: 詩篇1篇 まとめ(ケイヤ) |
From: "Keiya Kanno" <keiya@kanno.com> |
Date: 2003/09/19 16:27 |
To: saiwainet@egroups.co.jp |
こんにちは、+KannoKeiyaです。 詩篇1篇のまとめを書きました。 この詩篇の構造はこのようになっている。 A 1 悪者とともにいない(悪者、罪人、立つ) B 2 義人は主のおしえを喜ぶ(なぜなら、おしえ=道) C 3 義人は実を結ぶ(実) C 4 悪者は何も結ばない(もみがら) A 5 義人とともにいることができない(悪者、立つ、罪人) B 6 主は義人の道を知っている(なぜなら、道) 最初のAである1節は有名で、悪者の所に段々と深くなっているという箇所である。しかし、幸いな者はこの世の者と同じように自分の栄えを得るために悪者と一緒に歩み、立ち、座るということをしない。 最後のAである5節で悪者は義人の集い、つまり教会にいることはできないと書かれている。これはとても恐ろしいさばきである。悪者は悔い改めないなら、自分で教会にいってもそこに立ち、留まることはできない。 Bの2節と6節のつながりが最も分かりにくい。 2節で義人は主のみことばを喜び、それを昼も夜も口ずさみ、行っている。それに対して6節で主は義人の道を知っている。ここが1篇のまとめの箇所で、義人と悪者の結果と考えてしまうが、主語は「主」である。主は義人の道を知っておられ、悪者をさばかれる。主は義人を知っておられるということは、ただ知っておられるということではなく、彼を知って、悪者と区別し、悪者を滅ぼされるのである。このみことばと道がつながっているということは119篇の中に何箇所もある。つまり主のおしえと義人の道は一緒である。義人がおしえを喜ぶ時に、主は義人の道を知られる。それは道がご自分の言葉だからである。 Cの部分の対比は明らかである。3節で義人は実を結んでいて、栄えているが、悪者は風に吹き飛ばされるもみがらのようであり、栄えることはなく、滅ぼされる。 この構造からこの詩篇では義人と悪者の対比よりも、義人は何をし、主は何をしてくださるのかということのほうが強調されていることが分かる。 この構造は創世記2章と3章との関係で考えることもできる。ABは善と悪の知識の木、Cはいのちの木である。善と悪の知識の木とは義しいさばきを表していて、最初のABでは義人は自分を義しくさばき、自分が悪者とならないようにしている。最後のABで主は悪者をさばかれている。なぜなら、彼らは義人のように自分をさばかないからである。Cがいのちの木だということは黙示録から言うことができる。黙示録22章でいのちの木は水路のそばに植えてあり、たくさんの実と葉があった。 私たちはいろいろなキリストのひな形、そしてキリストご自身が自分をみことばと照らし合わせてさばき、主の道を歩んで実を結んだように生活するべきである。