Subject:
Re: [saiwainet] 詩篇6篇 羊本を読んで(ケイヤ)
From:
伊藤 由美 <yumimama@bmmn.bias.ne.jp>
Date:
2003/10/25 10:04
To:
saiwainet@egroups.co.jp

伊藤由美から質問です
(ビデオを見ていないので、そこで説明されていることでしたらすみません)


詩篇6篇を「悔い改めの詩篇」と呼ぶ時に大切なことをBoice氏は言っている。

「私は衰えはいつも罪のためにあると言おうとしているのではない。衰えにはたくさ
んの理由がある。どのような理由の中にあっても罪への気持ちが神に捨てられてい
る、または神によって厳しい罰という衰えの結果をもたらしていると考えてしま
う。」

"I do not suggest depression is always caused by sin. Depression has many
causes. In any case, a sense of sin often leads to a feeling of having
abandoned by God or of being chastised by him, which results in depression."


これはつまり、
罪を犯したという思いが 
 神に見捨てられたという感じ、や
 神に罰せられているという感じ、を
持たせることになり、
その結果、衰えがもたらされる。
ということでよいのでしょうか?


●導入

この詩篇の題は「悔い改めの詩篇」である。その考え方は初代教会と同じである。そ
れで32, 38,51, 102, 130, 143篇と同じ分類になるということが考えられる。

しかし、ある人たちはこれは「悔い改めの詩篇」ではなく、「病気の中の詩篇」と呼
ぶ。

この2つの考え方があるのは、「病気の中の詩篇」と呼ぶと詩篇51篇のようには罪の
悔い改めがでてこない、または「悔い改めの詩篇」と呼ぶのはこれが病気ではなく、
深い悲しみのためであることが分かるからである。


この意味もわかりにくいのですが、

・「衰え」は「罪」と関係がある場合が多い、という前提に立つと
悔い改めがでてこない場合は、「罪」とは関係ないので「病気の中の詩篇」ということになるわけですか?

・この6篇が「悔い改めの詩篇」だという場合は、
「神が怒っている/離れている」のでそれは「罪」のゆえだ、ということになると考えるのですか?
・でも、実際には何か特定の具体的な「罪」は伺えないようでもありますが、
ほんとはあるのでしょうか?

もう一つ、以前から感じていることですが、
「神をおそれる」という場合は
「畏れる」という字の方が、よりニュアンスを正確に表わしているように、私個人としては思うのですが
そのへんはどうでしょうか?
ただ、これをいうなら、「きよさ」、とか、「ただしさ」もどういう字を使うかということになってくるのと
同じかとも思いますが。
どのみち、日本語訳における字の使われ方は不十分なので、使う人がわかっていればよいということになりますか?

よろしくお願いします。