Subject:
詩篇7篇 義と認められることについて(ケイヤ)
From:
Date:
2003/10/31 12:51
To:
<saiwainet@egroups.co.jp>

こんにちは、+KannoKeiyaです。

義と認められるということについて詩篇7篇から何が教えられるのかを見ました。

義と認められるというのは裁判の時に「無罪」と宣告されるという意味である。私た
ちは罪人であったが、主イエス・キリストが代わりに私たちの罰を受け、主の怒りを
飲んでくださった。

このようにされるのはただ信仰によるということは創世記15:6に書かれていることで
ある。その信仰とは具体的に1節に書かれている。それは主に身を避けるということ
である。これが義ということである。主に身を避けるなら義と認められる。

身を避けるということは神が義のさばきを行ってくださるということを信じるという
ことである。主のところにいるなら敵から守られる。昨日見た哀歌ではエレミヤが泣
いている理由は神殿がなくなった。つまり身を避ける場所がなくなったということで
ある。ソロモンは神殿を奉献した時に神殿に向かって祈るなら聞いてくださいと願っ
た。それでそこに祈るというそこにいる神に祈るという異なるのである。

このように主に身を避けるなら、義なる神は義と認めてくださるのである。

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+KeiyaKanno
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May God Bless You!
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