みーちゃんです。
新約聖書の中で詩篇22篇とのつながりをみました。
■人々はあざける:
詩篇22篇を読む時に、まず最初に連想しなければ行けないのは、キリストの十字架のストーリーです。人々はキリストを十字架にかけた時に、罪状書きには”ユダヤ人の王”と書き、キリストをあざけって、神のお気に入りなのだから救ってもらいなさいと、ばかにしました。この言い方は、まさに詩篇22篇にでてくる敵と同じで、22篇のなかでも詩人の敵は同じことをいって攻撃してきます。22篇以外の箇所を見ても、同じような言い方はたくさんでてきます。それは、主を信じる者への敵の攻撃の中心は、いつも主と主を信じる者の関係だからです。また、キリストの十字架のストーリーに、”ユダヤ人の王”と書かれていたという話がありましたが、22篇には主が本当の王であるという話がでてきます。王権は主のものであり、主は国々を統べおさめておられます。キリストを十字架にかけたものたちは、キリストがユダヤ人の王であるばかりか、全知全能、すべてを支配している方である王の王であることが、わかっていなかったのです。
■わが神、わが神:
主イエス・キリストは十字架に架けられた時に、主に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれました。これは、わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか、という意味です。というのは、22篇のはじまりがこの言い方であるということです。詩篇22篇で、詩人は苦しんでおり、主に叫んでいますが、その叫びがこれなのです。
■着物をくじでわける:
詩篇22篇には、十字架のストーリと関連している、もう一つのテーマが出てきます。それは、18節の着物の話です。人々は十字架に架けたキリストの着物を、くじで分けました。また、十字架のストーリーの中には着物についてのテーマがもう一つでてきます。それは、人々がキリストを”ユダヤ人の王”と言ってばかにし、紫色の衣を着せたというはなしです。キリストは本来なら、王の王として王座につき、本物の紫色の衣を着るはずですが、私たちの罪のためにしんでくださり、人々のあざけりを受けてくださったのです。キリストは復活した時に、天に昇りそして御父の右の座につきました。
■王の王である方は:
十字架の話はキリストは王であり、王である方なのに人々にあざけられた、というは話ですが、本来なら王であるキリストはどのような状態であるべきなのでしょうか?その答えは、22篇の22節から31節までを見るとわかります。そこに書かれているように、キリストは本来なら人々に賛美され、人々が礼拝する者なのです。では、なぜ十字架につけらたのでしょうか?それは、私たちの罪のためです。罪深い人間のために、王であるはキリストは人間の奴隷となってくださったのです。
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