Subject: Re: [saiwainet] 詩篇42-43篇の構造【斎藤家】2 |
From: matsuda@saiwai.net |
Date: 2001/07/06 19:34 |
To: <saiwainet@egroups.co.jp> |
+松田@寄留者です。
信仰の薄い我々、なんと絶望することの多いことか。
そうですね。今週も励まされました。恵みです。 絶望は不信仰だと福音派の教会でも言われていたのですが、 詩篇のダビデが語る、その迫力はよくわかっていませんでした。 そういえば8節に歌恵ちゃんがいたとは気が付きませんで・・・ 新しい概念の歌恵ちゃんに更新することにします。
訓練あるのみ。「主を見て難を見ず」
しかり、しかり、としか言いようがありません。 信仰のご先祖たちの教えを学んで実地をやらされると、実は 恵みばかりであることも知らされますよね。 昼も夜も主とともにあることの幸いを感謝します。 この幸いをまだ知らないクリスチャンでない人のことを思うと 胸が痛みます。でもこればかりは祈りによらなければ・・・ 主にある兄弟姉妹と、音もなく交わりを持てる「さいわいネット」も 幸いなものですね。恵みに恵み、感謝に感謝。
+カンノパパです。■ 京子 Mama
がんばりました。聖書を学ぶとき「木を見て森を見ず」
うちでも、なかなか色塗りが全体構造にいかされてこないんです。 練習あるのみ。「木も見て森も見よう」42:5,42:11,43:5と同じ祈りが3回繰り返されます。 そこで「3回祈る」ということについて考えてみました。なるほど、「3回祈る」ことは、よく出てくることなんですね。 この詩篇、学べば学ぶほど、絶望の詩篇ではなく、 主待望の詩篇であることを教えられますね。 3回もでてくるから覚えちゃうよね。このフレーズ。 絶望しそうになるとき、思い出すと励まされる。 信仰の薄い我々、なんと絶望することの多いことか。 訓練あるのみ。「主を見て難を見ず」