Subject:
詩篇44篇の構造(松田)
From:
matsuda@saiwai.net
Date:
2001/07/10 13:22
To:
<saiwainet@egroups.co.jp>

+松田@寄留者です。
 
(せっかく書いた構造が、アウトルック・エクスプレスの「送信」ボタンを押した瞬間に
メールもろとも消えてしまいました。画面から消えただけでなく、送信ボックスにも
削除ボックスにも、PCのどこにも残っていませんでした。ショック。
全くこんなことは初めてです。やり直し。でも、感想を追加できてよかったです。)
 
■構造
 
A 御顔
  a 先祖たちへの救い(1-3a)
    x 御顔の光の救い(3b)
  a 私たちへの救い(4-7)
 
B 一日中、神を誇る(8)
 
B 一日中、死ぬ
  b 一日中、恥を受ける(9-16)
    x 神の契約を忘れない(17)
  b 一日中、殺される(18-22)
 
A 御顔を隠さないで(23-26)
 
■説明
 
構造がちょっとヘンですが・・・
中心は17節にしたかったのです。
 
恥と死を受けている理由は、20-21の、
「私たちが私たちの神の名を忘れ、ほかの神に手をさし伸ばしたなら」
と関係あると思いますが、これは構造上の中心ではないようです。
 
まだまだ考える必要がありそうです。
 
 
■感想
 
一日中辱められ、殺され、死の陰でおおわれても、山犬に砕かれても
詩篇記者はしつこく神を待ち望みます。詩篇51:8を思い出します。
 
「私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、
あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう」
 
神様に骨を砕かれても、その骨を神様に見せて、なおも神様を待ち望む、
という信仰ですね。言葉もありません。無限に忍耐強い神様の愛に対する、
罪人の側からの最高の応答ではないでしょうか。
 
敵や山犬や大波や目の前のいろいろな問題が問題なのではないのですね。
 
神様に打たれる、というのは怖いというより(もちろん怖いですが)、むしろ、
自分を知っていて愛してくださる神様ご自身の手で打たれ、砕かれるのですから
もっとずっと悲しくてつらいことですね。神様と親しくなりたいのに。
 
怖がりの松田がこう言ってもあまり説得力ありませんが、第一巻のときから
塾長が言うように、敵の攻撃ではなく神様の沈黙がやっぱり最もつらいと
思います。
 
主キリストの苦しみと悲しみは私たちの想像を越えていますけど、
十字架刑そのものというより、無限の御怒り(鈍い私にはこれが想像しにくい)で、
自分を愛してくださっているその神様の手が自分を完全に打ち砕いて敵に引渡して
殺す・・・これは耐えがたいです。
 
だからこそ「彼は自分の激しい苦しみのあとを見て満足する」と言えるのでしょうか
(個所を忘れた!)。
 
ところで、キリストの場合は「一本の骨も砕かれなかった」のですよね。
このことは詩篇に出てくる「砕かれた骨々」とどういう関係にあるのでしょうね。
 
いずれにしても、
コラの子たちのマスキールと書いてありますが、ここもやっぱりダビデしか
連想しません。カルヴァンの意見に同調するなあ・・・ね、みーちゃん?