Subject:
詩篇26篇と15篇の対比(ケイヤ)
From:
Date:
2004/03/22 12:21
To:
<saiwainet@yahoogroups.jp>

こんにちは、+KeiyaKannoです。

詩篇26篇には他の詩篇と似ている箇所がたくさんあるが、その中でも15篇には似てい
るテーマがたくさんある。また15篇に似ている箇所として有名なのは詩篇24:3-6なの
で、そことも比べました。

●主の住まい

詩篇15篇は主の家、主の幕屋に住める人は誰なのかという問いから始まる。その場所
は26篇では主の住まわれる家、主の栄光がある家であると言われている。それで15篇
で幕屋に住める人は誰かと言っている時に誰が主の栄光とともに住むことができるの
かと言っているのである。

●正しい者の行い

「主の幕屋に誰が住めるのか」という問いに対して15:2-5で答えている。彼は足で罪
を犯さず、口でも罪を犯さない。彼は義を行い、真理のうちを歩んだのである。それ
は26篇で言われているように偽善者とともに歩むということの反対である。また彼は
隣人を口で攻撃しないで、その口によって主の御名を賛美し、みわざを語り継げるの
である。

●わいろ

正しい者は主の道を歩んでいるので、さばきを曲げたりすることをせず、わいろを取
らない。それは詩篇26篇で詩人を攻撃している悪者の反対である。悪者の両手は汚れ
ていて、わいろに満ちている。しかし、詩人の手はきよい。手はきよいなら主の山に
住めるということは24篇で言われている通りである。手がきよいということは心がき
よいということでもある。

●ゆるがない

15篇の最後でこのように行った人はゆるがないということが言われている。このよう
にゆるがないのは主の山に住むことができるからである。26篇では主に信頼するなら
ゆるがされないということが言われている。


このように対比をしてみると分かるように15篇と24篇に登場しているのは正しい者と
神のみであったが、26篇では悪者が攻撃しているということが分かる。ここで悪者は
正しい者を本物の教会から引き離し、自分たちの集まりの中に入れようとしているの
である。このように正しい者には敵が攻撃してくるので、彼らと戦わなければならな
いということは大切である。

またこれらの3つの中の2つ、24篇と26篇ではもっと民的なことが強調されている。24
篇では正しい者の一族の話がされているし、26篇では民の集会で主のなされたことを
語り告げているのである。ただ個人が寂しく、主の家にいるのではなく、民がいると
いうことはとても大切なことである。

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+KeiyaKanno
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