Subject:
Re: [saiwainet] 詩篇29篇について(藤田)
From:
"Daniel Mitsuhiro Fujita" <mfujita@law.ne.jp>
Date:
2001/03/28 11:04
To:
<saiwainet@egroups.co.jp>


+カンノさん、藤田@事務所です。

> >主がさばきのときに御座に着かれたというと、
> >キリストが十字架上で御父によるさばきを受けられた後
> >栄光の右の座に着かれたことを連想しますが、
> >この連想は正しいのでしょうか?
>
> どうやって確かめれば良いのでしょうか?
> 何をどうやって調べればよいと思いますか?

どうやって確かめるか。
やはり、思いつくのは、キーワードをOLBで調べることくらいですか。

でも、カンノさんが作ってくれた、ヘブル語直訳では「御座に着く」ではなく
て、
ただ「座る」という表現なんですよねえ。
もっとも、「神様が座る」ということを「御座に着く」と表現することは何も
不自然ではないので、訳としてはまちがいではないのでしょう。

今日、時間があったら、OLBで調べてみます

> >菅野家風の問いにすれば、
> >主は、大洪水のときまで、御座に着いていなかったのか
>
> うーん、うまい。そういうことです。
> これも、どのようなアプローチをしましょうか?

どういうアプローチをしたらいいか、までは正直考えてなかったですね。
問いをつくった時点で、自分の中では終わっていました・・・。

御座に着くということは、絶対者としてこの世を支配している状態をいうわけ
ですから
   「主は、大洪水のときまで、御座に着いていなかったのか」
と素直に問われれば、答えは
   「そんなことはない。神様は、世界の創造のはじめから御座に着いてお
られた」
となるでしょう。

ではなぜ、詩篇が、このような問いを発したくなるような表現をしているの
か。
そこがポイントなんでしょうね。

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  藤田充宏 里香 きりえ 蒔人
   E-mail    mfujita@law.ne.jp
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