Subject:
詩篇32篇 つながっている節
From:
"+mikuni@kanno.com" <mikuniML@kanno.com>
Date:
2004/05/11 11:24
To:
<saiwainet@yahoogroups.jp>

こんにちは。菅野みくにです。

詩篇32篇の中で、つながっている節があったり、並行している節、反対の節があっ
たりしたので、説明を書きました。

■1-2節と5節のつながり:

32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しま
した。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦
されました。

1-2節と5節は、みんなも分かるようにつながっている。反対の意味でつながってい
る。1-2節では罪を赦される、罪をおおわれる、主が罪を認めない、心に罪がない人
は幸いであるといっている。しかし、5節では、ダビデは自分の罪を告白し、罪を隠
していない。また、主に罪を赦され、自分の罪を認めている。

・罪を赦される    ←→  罪を告白する
・罪をおおわれる   ←→  罪を隠さない
・主が罪を認めない  ←→  罪を赦される
・心に罪がない    ←→  罪を認める

■7節と10節のつながり:

32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り
囲まれます。セラ

32:10 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取
り囲む。

7節と10節は同じ意味でつながっている。ここを見て気がつかない人もいるが、同じ
キーワードやテーマは出てくる。7節で主はわたしの隠れ場、主は苦しみからわたし
を守る、喜びがわたしを取り囲むと言っている。10節では、主に信頼する、悪者には
苦しみが多い、恵みが取り囲むと言っている。

主が隠れ場であると言うことと主に信頼することは同じである。主が隠れ場だと言え
るのは、その隠れ場に信頼しているからである。

主はダビデを苦しみから守って下さるが、悪者のような悪を行う者には、主は心の痛
みを多く与えられる。私人は痛まないが、悪者は痛んでいる。

喜びが取り囲むと言うことと、恵みが取り囲むと言うことは同じ意味で並行してい
る。喜び、恵みというように、何かがダビデを取り囲んでいる。

■1-2節と11節のつながり:

32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

32:11 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜び
の声をあげよ。

ここの並行では同じ意味と言えば同じ意味の並行であるが、基本的には反対のつなが
りである。1-2節で幸いなことよと言うことが二回出てきて、罪をおおわれた者とい
う言い方も二回出てくる。11節には喜び楽しめという言い方が二回出てきて、正しい
者の言い方も二回出てくる。

1-2節では罪が赦された者に対して幸いであると言っている。正しい者、直ぐな人と
は基本的に罪がない者である。しかし、1-2節では罪はあったが、赦された者は、幸
いであると言っている。

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