Subject:
ルカによる福音書15章 「昨日のちゃんくんの質問の答え」
From:
Date:
2004/05/13 12:17
To:
<saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

昨日のちゃんくんの質問の答えについてまとめました。

■ルカ福音書15章を見たときのちゃんくんの質問

1. この家族には女の子もいたのか?
2. なぜ兄は子山羊一匹といっているのか?
3. 弟は宴会の時に遠慮しなかったのか?

■質問1の答え

この家族に女の子もいたということは考えられる。
しかし、11節を見れば、ある二人の息子といっている。
今日の聖書研究でみーちゃんがいっていたんだが、
息子だけにわけたんじゃなくて、娘にも相続財産をわけたのではないか。
しかし、お父さんは娘は財産をもらわないといっていた。
娘はふつうは結婚するということになっていた。
だから、ご主人から財産をもらうということであった。

■質問2の答え

ここで、兄は父親に言っている。
「私は罪を犯したことがないのに、子山羊さえももらったことがなかった。
しかし、弟は罪を犯したのに肥えた牛をもらっている。それはなぜだ。」
山羊は宴会の中では一番小さいものである。
それさえも、父親はくれなかったのだ。
いけにえの中で貧しいものははとをささげるという律法であるが、
はとでは宴会にならないので、兄はここで山羊といっている。

■質問3の答え

ちゃんくんはこのようなときには遠慮していない。
この宴会を聖餐式として考えればわかるように。
みんなは聖餐式を受けるときに、罪を犯したから遠慮しますということはしていな
い。
しかし、弟は遠慮している、正しい意味で遠慮すべきである。
食べないという意味での遠慮ではない。
普通にパンとぶどう酒を食べて飲んでいる。

■今日の聖書研究のまとめ

父親は自分の息子が帰ってくるのが見えたとき、
まだ家からは遠かったのに、彼を迎えに行く。
父は彼がまだ、悔い改めてもいないのに赦している。

息子は悔い改める心を持っていなかったら帰ってくることはしない。
父のもとに帰るということは悔い改めが含まれている。

もし、ある人が教会から追い出されて、悔い改めたといっても、
そのままでその教会の人たちに何もいわないで、
他の教会へ行ったら、それは悔い改めにならない。
その教会にいったら、それは恥となるからやだというひとは、
自分の罪を自分で隠そうとしている、告白しない人である。

もし、教会から追い出されても、悔い改めて、
その教会に戻ってきて、罪を告白してから、
べつの教会にいくならそれは考えられ、悔い改めたことになる。
まず、その教会のもとに戻ってこなければならない。

二人の息子の話は聖書の中にたくさん出てくる。
例えば、カインとアベル、イシュマエルとイサク、エサウとヤコブである。

このたとえは四つにわけても見れるし、
三つ、二つに分けても見ることができる。
キリストはこのたとえを話されたときにこう書かれている。

キリストはある一つのたとえを話された。
このたとえは聖書の中で一番すごいという人がいる。
放蕩息子のたとえには豚と牛と山羊が出てくる。

豚はユダヤ人の家畜として、かうものではない。
異邦人の家畜である。
なぜなら、豚は汚れていて、異邦人でも豚についての仕事をする人は程度低い。

キリストはこのたとえをユダヤ人に対して話された。
放蕩息子のたとえに出てくる兄はパリサイ人をあらわす。
私たちはこのたとえを見るときにユダヤ人のかんてんからみる。

放蕩息子のたとえの前に二つのたとえがあるが、
そこで、羊と銀貨は悔い改めることができないということはわかる。
しかし、7節と10節に悔い改めるなら、みなはその人のために喜ぶとある。

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