Subject:
ユダの手紙と34:20節についての説明文
From:
Date:
2004/05/27 11:22
To:
<saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

ユダの手紙と34:20節についての説明文を書きました。

■34:20節について(過越の祭り)

ここは今年のキャンプでもちゃんくんが質問されて、答えたところである。
キリストは十字架にかかられたときにすねはおられなかった。
しかし、もう二人の強盗のすねは折られた。

20節はキリストの十字架だけで成就されているものではない。
過越しの祭りのときにもこれは命令されて行われている。
この祭りの時には民のいっちを強調している。

20節の砕かれないという言葉はヘブル語でも18節と同じで、
その言葉は詩篇51:17の言葉とも同じである。
そするうとこれはいけにえについての話であることがわかり、
過越しの祭りについての話が出てくる。

ということで1-11と12-22節というようになっている。
17節の主を呼ぶということはこの詩篇の中にあって、
それは出エジプトのスタートちてんである。

主を呼ぶと救われたというテーマがたくさん出てくるのが詩篇107である。
そこはイスラエルの歴史について書いてある。

■ユダの手紙

ユダの手紙でこの手紙を書いている人は、
信仰の戦いについて話している。
だれとの信仰の戦いかというと、不敬虔な人との戦いである。
彼らはその戦いで神の恵みをひていすることばをもって戦ってくる。

この話を見ればわかるように手紙を受けている人と、
手紙を受けている人の敵は違うことがわかるが、
何が違うところになるのかということになる。

神に対する信仰をもっていないというところはあるが、
そことはべつにユダの手紙をよくみればわかる。
最後の19-20を見ればよくわかる。

彼らは御霊を持たないので、分裂をおこす。
しかし、正しいものは聖霊をもって、神に祈る。
ここが、敵と正しい者の一番の違うところである。

不敬虔なものたちは神をののしることばをつかって攻撃してくるが、
しかし、愛する人々はそれに対して愛をもって、
彼らを死から救い出しなさいとユダに命じられた。

でも、どのように愛する人々に御霊があるかをしるかというと、
その人たちが、いつも天にいる父なる神に感謝しているかである。
もし、神様をいつも賛美していないのであれば、その人は不敬虔な人である。

神様に感謝するということは詩篇34篇の出だしで、
ここは34篇とつながっている一つのところである。
後もう一つよくにているとわかるのは口の話である。

詩篇34篇で神を愛する人はだれかと問いかけられている。
その答えは14節ではなく、13節である。
善を行うことをもっとこまかく言ったのが口をせいするということにもなる。

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