Subject:
詩篇46篇1-2節 カルヴァン聖書註解
From:
"Miwaza Kanno" <miwazaML@kanno.com>
Date:
2001/07/26 10:32
To:
+さいわいネット <saiwainet@egroups.co.jp>

みーちゃんです。
詩篇46篇1-2節についてにのカルヴァンの解釈を見ました。
 
■参考とした文献:
詩篇46篇1-2節 カルヴァン聖書註解
 
■カルヴァンの1-2節の訳:
神はわれらの避け所、また力です。
神は艱難の中にあって、いと近き助けであることがわかります。
このゆえに、たとえ地が移り変わり、
山は海の真中に落ち込もうとも、
我らは少しも恐れません。
 
■大切なこと:
彼は(預言者)神のうちには、その民を守り保つに十分な力がある。
この節の後半で私がわかると訳した動詞は、過去形である。
預言者が複数形で[もろもろの]の艱難と付け加えていることから、これを一続きの連続的な事柄であると考える。
すなわち、神がいつでも必要に応じて、ご自身を示され、何かの悩みが民を苦しめるときには、見て見ぬふりをされることはない、と解釈するのが正しい。
なので、この動詞を過去形に訳すほうが、より適切なことになるであろう。
それゆえ、作者は神がその民に対して、かかる方であられる、と明白に言い表す。
預言者は、神がその民に対し、どのように振舞うのを常とするかを、教えている。
預言者はここで、私たちの望みの真実で正しい証言とは、どのようなものであるかを示している。
すなわち、物事がきわめて混乱し、山々の基はこなごなになってしまうかのごとくに思われるときでも、われわれが平和に、そして心のうちで確信を抱きつづけている、と言うことがそれである。
また、何も危険がないときに、大いなる確信を抱いているのかのごとくに振舞うことは、きわめて有益である。
同時に、預言社がわれらは少しも恐れないと言うとき、彼は信仰者があらゆる不安や恐れから、あたかも彼らには何の感情もないかのごとく、全く自由である、と言いたいのではない。
 
■わたしのこれに対してのコメント:
『この節の後半で私がわかると訳した動詞は、過去形である。』とカルヴァンは言っているけれど。私にはわかりません。皆さんはどう思いますか?
『同時に、預言社がわれらは少しも恐れないと言うとき、彼は信仰者があらゆる不安や恐れから、あたかも彼らには何の感情もないかのごとく、全く自由である、と言いたいのではない。』これには私も同意しています。
 
 
 
 
 
 
 
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 Miwaza Kanno
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