Subject:
今日の聖書研究のまとめ(+ちゃんくん)
From:
+ShinyaKanno
Date:
2004/09/22 20:18
To:
<saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

今日の聖書研究のまとめをしました。

詩篇全体は礼拝について書かれている。
礼拝に関係していない詩篇はどこにもない。
とくに51篇みたいな詩篇は学んだことのない人でも礼拝の詩篇であることはわかる。

詩篇51篇を学ぶとき見るべき箇所はエレミヤとエゼキエルである。
あと、ヘブル9-10章。ここは三年前に学ぼうとしたけれども、
そこを学んでいる時間がなくて、三年後ということになった。

三年前の構造は1ー9節と10-19節の前半と後半にわかれている。
前半は神殿が汚れていたのがきよめられる。
後半は新しくされた神殿が喜ぶということになっている。

その前半と後半のだいを違う言い方で言うと、
前半は十字架で流された血で、後半は復活のいのちである。
前半の方のいけにえのほうが、本物である。

いけにえはがっかりすることが中心なわけではない、感謝することである。
ただ、ずっと感謝、感謝ではない。そんなのうてんきなことをしろとは言っていない。
がっかりもしながら、感謝することである。

感謝することは選手の詩篇50篇で学んだように、
神こそが主である。イエスは主であるということである。
何かをもらったから感謝ではない。

それもふくめてイエスは主であるという告白が本物の神様に対する感謝である。
エレミヤの所ではこれは主を知れとおのおの互いに教えなくて良いというところで現
されてるのではないか。

アブラハムはイサクをささげるために山にのぼっていったときに、
復活のいのちを信じてのぼっていったのである。
ごかいがないためヘブル11:19節にちゃんと書かれている。

詩篇51篇に出てくる義のいけにえは、
先週の詩篇に出てきた感謝のいけにえの別の言い方である。
神様の義は弱い者、悩む者、貧しい者をあわれむことである。

私たちの義も同じであって、神様が私たちをあわれんでくださったように、
弱い者、貧しい者、悩む者をあわれむことである。
悪いことをいっさいしないということが義ではない。

悪を行い者はこの世にはだれもいない。
しかし、罪を犯したときにすぐに悔い改めることのできるものが正しいものである。
私たちは罪を犯して0の状態からマイナスになってしまう。

しかし、神様は私たちの罪を赦して0の状態に戻してくださり、
それだけではなく、されに、私たちに祝福まで与えてくださる。
神様の恵みは大いなるもので、神様はぜったいけちではない。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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