こんにちは、+KeiyaKannoです。
オバデヤ書は詩篇60篇でさばかれているエドムへの宣告の書物である。それでこの書物と詩篇60篇がどのように似ているのかを見ました。
ここで主は高ぶっているエドムを引きずりおろし、さげすまれる者とされるということが預言されている。彼らは残らず絶やされ、滅ぼされる。誰も残る者はいない。このようにさばかれるのは彼らが自分の兄弟ユダがさばかれるのを見て喜んだからである。主は彼らがやったことを彼らに返される。彼らは自分たちが笑ったユダによって滅ぼされる。この時に王権は主のものであるということが明らかにされる。
オバデヤ書と詩篇60篇では状況が逆になっている。どちらかと言うと詩篇60篇は補囚の時で、オバデヤ書はそのあとである。詩篇60篇ではまだ救われていないが、救いの宣告だけがされている。それに対してオバデヤ書では民はもう救われ、完全にエドムに矛先が向いている。
オバデヤ書でさばきの理由として強調されているのは、民がさばかれた時にそれを見知らぬ者のように見ていたということである。しかし、詩篇60篇を見る時に、神がこのように民を拒み、見ていないかのようにされていたことを見ることができる。だが神は民を捨てはしたが、完全に見捨てることはしなかった。それで救ってくださるのである。しかし、エドム人は完全にイスラエルを捨てたためにさばかれた。
オバデヤ書19節からの箇所は詩篇60:6-8に似ている。これらの箇所には国々は町々の名前がたくさんでてきて、彼らがさばかれると言われている。主はこのようにさばくことによってご自分が王であることを宣言されるのである。
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