Subject:
詩篇62篇 9-10節
From:
Miwaza J. Kanno
Date:
2004/12/07 12:03
To:
saiwainet@yahoogroups.jp

みーちゃんです。

9-10節に書かれているこの世の力を望みとしているというようなストーリーを見ました。

■ヨブのことば(ヨブ記31章16-28節):

ヨブは最初はとても富んでいる者であり、神様を正しく礼拝する潔白な者でした。また、彼は神様に祝福されていました。しかし、サタンはそれを見て神の元に行き、ヨブを試す権利を求めました。サタンはヨブの子供たちと財産をすべて取り上げ、その上ヨブをも病気にしました。

そのような状態にあるときに、ヨブは自分の罪について話しているなかで、もし、自分が自分の金をたのみとし、また、富が多いこと、また、多くのものを得たことについて喜んでいるならば、それは、神様を否んだことになると言っています。

ヨブも言っている通り、このように自分の金のみを頼みにするならば、それは罪です。その罪について、詩篇62篇9-10節には書かれています。そして、正しく富を持つことと、この世の富だけに頼るとは違います。この正しい富を持つというのは、ヨブを見れば分かります。ヨブは試練にあう前にも非常に祝福されていましたが、試練の後も、前よりももっと祝福された者となっています。

■ナバル:

たくさんの富を持ち、その富だけに頼っていた者の一人と言えば、ナバルです。ナバルは、羊三千頭やヤギ一千頭を持っているような人でしたが、ダビデが旅をしてきて、食べ物をすこし求めたときに、少しも与えもせずに追い返しました。

このように扱われたダビデは、怒ってナバルのに対して復讐をしようとしましたが、ナバルの妻アビガイルの言ったことによって、復讐をすることはしませんでした。アビガイルがダビデの所へ、復讐をしないようにと告げにきたときに、食べ物やぶどう酒を非常にたくさん持ってきたことでも、ナバルが富んでいた者であることがわかります。

アビガイルがダビデの所に行って戻ってきたときにも、ナバルは”王の宴会のような宴会”をしていたと書かれています。アビガイルは朝になってすべてのことをナバルに伝えると、ナバルは気を失い石のようになりました。その後、主が彼を打ったので彼は死にました。ナバルの数々の行いからは、彼が”この世の力を望みとしていた”ということがよくわかります。

■キリストのたとえ:

キリストのたとえの中には、よく金持ちについての話がでてきます。マタイの説教の中などにも、富の話は出てきます。その一つはマタイ6章19ー21節にでてくるもので、キリストはここで宝を天に蓄えるようにと命令しています。なぜなら、この宝がある所に自分の心もあるからだ、と言われています。

ですから、もし自分の宝をこのようにおいているならば、自分の心はこの世にある、つまり、この世の宝に心を留めているということになってしまいます。

キリストの他のたとえの中では”金持ちが御国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい”と書かれています。この言い方は、マタイ19章23-24節のほかにマルコ10章やルカの18章にも出てきます。私たちに与えられた富とは”永遠の命”です。

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