こんにちは、+イトウショウです。
魂が渇くことについて考察しました。
◆詩篇42:2
私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
この詩篇を書いた詩人のたましいは神を慕いあえいでおり、悪者は神が詩人を救っていないことを攻撃している。詩人は神がともにいて、他の民と一緒に神を賛美して感謝していたことを思い出している。その詩人は自分の魂に神を待ち望んで賛美するように励ましている。
詩篇65篇の詩人もこの詩篇と同じように魂が渇いており、神が神が共にいてその御翼の陰にいた頃を回想している。両方の詩篇でも、たましいは最終的には神の御前で、神を賛美するようになる。
◆詩篇107:4,9
そのようなたましいも、最終的には神のみ前で、神を賛美するようになる。
まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。
主の民は荒野をさまよって、彼らのたましいは渇いたが、神に叫ぶと、主は彼らを導いて彼らの渇いたたましいを満たされた。この箇所は出エジプトの途上に当てはまり、イスラエルは荒野を40年間さまよって、彼らのたましいは渇いてしまったが、主は彼らの叫びを聞かなかったことはなく、最終的にカナンの地に導いて、彼らのたましいを満ち足らせた。
◆詩篇143:6
あなたに向かって、私は手を差し伸べ、私のたましいは、かわききった地のように、あなたを慕います。
この詩篇でも神は詩人から離れており、詩人は神に祈っている。詩人の敵は詩人のいのちを地に打ち砕き、その霊は衰え果て、たましいは神を慕うが、神は必ず敵を滅ぼしてくださる。
この詩篇には魂についてのことの他には、敵がいのちをねらっていることが書かれている。
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Shou Itou
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The Lord Be With
You!!
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