Subject:
2005年1月5日の聖書研究
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/01/05 11:34
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

■由美ママからの詩篇65篇についての質問

 3節の罪の赦しは何ですか?
 3節のまわりでは神様の家についてとか地が満ちていることについて言っている。
 しかし、3節の罪の赦しはまわりの箇所といっしょにかんがえなければならない。
 京子ママは65篇を礼拝式次を通して見た。
 3節の意味がわかるということは全体像がわかっていることになる。
 3節だけを見て意味を調べようとするとわからない。
 そのためには構造を見なければならない。
 もう何個か手がかりがある。申命記32章、詩篇19篇、第一列王記8章、詩篇130:4である。
 前回は65篇のときにカルバンの説教集を見ていた。
 しかし、カルバンは65:5-13節のところを説教している。だから3節はない。
 罪の赦しを個人的なものとして見るからこのような質問が出てくる。
 普通はクリスチャンもノンクリスチャンも苦しみの時に神様に祈る。
 苦しみがくる原因は自分の罪にある。(例えば、エジプトのイスラエル)
 苦しみは自分の罪に対する報いである。その報いとは神様の家から追い出されることである。
 解決は罪の赦し、また神様の家に戻してもらえるということである。
 解決のときには罪の赦しだけではなく、敵のへのさばきも行われる。
 私たちは平和の中にいて、成長していないのでこのような苦しみにあったことがない。
 私たちをイスラエルとして例えて言えば荒野のイスラエルである。子供の時代。
 もともと、私たちは罪を犯して神様の家から追い出された。
 だから、罪が赦されて戻るときは神様の家に戻される。中間というものはない。
 ほんとはこの世は神様のみことば、賛美で満ちていなければならない。
 しかし、敵が流した聖徒の血で満ちている。キリストの血も個人的なものではない。
 この象徴はいけにえである。いけにえは一回にたくさん血を流す。私たちの罪のために。
 敵が流した罪のない者の血に対しては敵の血を流す。血には血である。
 血を足で踏むときに私たちはそれを見て喜ばなければならない。

■構造は1-4と5-13の大きくわけて二つにした。

 構造を考えるときに1ー4節が一つであることは絶対にかわらない。
  1-2は賛美で3節は賛美の理由が罪の赦し、罪の赦しの祝福が4節。
  9-13節は地が神様によって祝福されているということである。
  5-8節は国々の民が対象になっている。全世界に対するみわざ、さばき。
  今回考えた構造はABABになっている。
  そうしたらAは何?Bは何?ということになる。
  Aは罪の赦し、それは後半になるとみわざである。
  Bは神家に住むそれは後半では神家になる、エデンの園化する。
  問題は罪の赦しとみわざの関係は何なのか?
  この問題を解決できると罪の赦しの位置づけがわかる。

■申命記32章

  そうしたら申命記32章に行ってその位置づけを見てみる。
  31章の時点でこれからイスラエル人はカナンをエデンの園化しに行く。
  32章はモーセの遺言の歌である。
  この歌は復讐で終わる。

■詩篇19篇

  天の栄光、みことば、罪の赦し

■第一列王記8章

  ソロモンの祈り、神の家をささげる歌、罪の赦し

■詩篇130:4

  主を恐れるー主は贖主である
 詩篇130:4罪を赦してくださる神様なので人に恐れられる。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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