+ちゃんくんです。
由美ママからの質問:産物とは何か?
祝福はどのように絵であらわせばよいのか。
まるであらわせばよいのか。しかくであらわせばよいのか。
地球はまるいと思っているかもしれないがしかくである。
ギリシャ語では祝福は2127である。
ヘブル語では祝福は01288である。
神様のあわれみと祝福はどのようにつながっているのか。
これをしらべるにはヘブル語を見なければならない。
祝福とあわれみをたすと御顔を照らすことになる。
ここではあわれみは恵みという意味ではない。
地が産物を出すということと祝福はつながっている。
あと、全世界が主を恐れることも祝福といっしょである。
2節の道が地の上にと神様の御救いを知るも祝福である。
66篇は出エジプトの話で、65篇はヨシュアの話である。
地が産物を出すというのは65篇的である。
それで、全世界が主を恐れるということは66篇的である。
地が産物を出すということはアダムに仰せられた。生めよ。ふえよ。地を満たせである。
全世界が恐れるということは神様に裁きが行われて、救いがくるということである。
祝福が聖書で一番最初に出てくるのは創世記1:22節である。
ここで、海の魚と空の鳥までも祝福されている。
生めよ。ふえよは英語では実を結びなさいという意味になる。
聖書の中で二番目に出てくるのが、創世記1:28節である。
次は、人だけで動物ははいっていない。
その次は創世記2:3である。ここで、主は七日目を祝福された。
その日主は聖であると宣言された。それは主がわざを休まれたからだ。
ここに出てくる完成ということばは終わるということばである。
私たちはよいわざにはげむ、なぜなら、神様がよいわざを行われたからだ。
善と悪が区別されることと、聖と汚れは同じことにおいて成就されるが違う側面である。
今考えた中で聖と善は祝福につながっていることがわかる。
いけにえをささげるときに汚れた動物ときよい動物にわける。
なぜわけるかというと汚れは死で、きよさは命である。
創世記1:22節と28節の約束は命の約束である。「生めよ。ふえよ。」
この次は民数記6章を見なければならない。
民数記6:24-26節は大祭司の祈りである。
神様は大祭司アロンにこのように仰せられた。それでアロンは民にそれを告げる。
そのときに、民に祝福が神様から与えられる。
ここで、アロンは神様に恵みと平安を祈らなければならない。
24節に出てくる守られますようにとは何なんだろうか。
守るが一番最初に出てくる箇所は創世記2:15節である。
そこでは、アダムが園を守るということが言われている。これは支配の話である。
民数記のところからわかるように、祝福と御顔を照らすことはいっしょであることがわかる。
平和とさばきはいっしょである。
ヨセフが祝福されることはアブラハムの祝福の成就である。
だから、まずアブラハムへの祝福を見なければならない。
彼に対する祝福はこうである。祝福されてたくさんの子供の父となる。
このようにして最後にいきたい聖書箇所は第一ペテロ3:9である。
私たちは神様が与えられた祝福を受け継ぐためにこの地に召されたのである。
この次にペテロは詩篇34篇を引用していう。
そこで、ペテロは3:10-12節で悪をもって悪に報いないこといついて教えてくれる。
もうちょっと進んで行くと黙示録のところにはいって、黙示録22:11節にたどりつく。
この地でも実を結ばなければならない。お金がないよりかはあったほうがいい。
だから、子供がないからといって悲しまなければならないわけではない。
いつか、神様が子供をもっている人よりも大きい喜びを与えてくださるからだ。
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+審也@カンノファミリー
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