+ちゃんくんです。
箴言25:21-22、マタイによる福音書5:43-48
キングジェームバージョンのマタイによる福音書5:44節に祝福ということばがはっている。
日本語の訳だと44節の祝福ということばは愛ということばになっている。
また、44節の迫害ということばはのろいになっている。
■67篇の構造の手がかり
今週の構造はすごく考えやすかった。
大きくわけると頭とおしりのところに神様が民を祝福するというテーマがある。
67篇を見ると祝福ということばがめだっている。
普通は神様が民を祝福すると、民が神様を祝福するはずである。
ほかには、アブラハムのところでわかるように国々が民を祝福すると、神様が国々を祝福してくださる。
けれども、67篇には国々が神様を祝福するというテーマが出てくる。
67篇のテーマは神様が民を祝福すると、国々が神様を祝福する。
アブラハムの契約とは67篇は直接はつながってはいない。
アブラハム契約のところは国々が祝福すると、神様が国々を祝福するということになっている。
堕落のスタート地点は4番の民が神様を賛美するはずのところである。
神様が民を愛したのはかわらないが、民が神様を祝福するか、のろうかでかわってしまう。
■祝福
祝福を新約聖書の中で見たかったので、ギリシャ語でしらべた。
祝福ということばが一番最初に出てくるのは創世記1:22である。
それに対して一番最後に出てくるのは第一ペテロ3:9である。
祝福といったときにただ、何かを求めていっているのではない。
求めていることもふくまれている。
ヤベツの祈りは自分への祝福を求めてるということではやった。
神様がよければ私たちは何でもいいわけではない。
契約は祝福の約束である。
創世記の箇所から祝福について二つのことが言える。聖であるということと善であるということである。
聖であるというのはいのちのことをあらわしているのである。
ほかには創世記ではノアの祝福の約束と、アブラハムの箇所である。
次の見なければならない箇所は民数記6章である。
この箇所の中には三つのことが出てくる。実はまだこの三つのつながりが何かをよくわかっていない。
神様の栄光をあらわし、全世界が神様を喜ぶために人は造られた。
祝福ということばを見たときに最後にいきつきたい新約聖書の箇所は第一ペテロ3:9である。
ヤコブ3:9にも祝福ということばが出てくる。ここで、同じ口で祝福し、乗ろうと言うことは何なのかと言われている。
敵を祝福することは悪口を言わない。それは敵に対する祝福である。
悪人がやっていることをいっしょにやらないということも祝福になる。
相手をきもちよくするための祝福ではないことがわかる。
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