Subject:
69篇「火曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/02/01 11:25
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

69篇には二つのテーマが出てくるそれは泥沼とそしりである。
この二つの話をどのようにあつかうかで、構造がわかってくるのではないか。
69篇の中には泥沼、そしり、泥沼、そしりの順番で出てくる。

その中には待ち望むという話も出てくるけれども、泥沼や、そしりのようには長くはなっていない。
もし、泥沼を1-3節にするならば、22-23節になる。
22-23節は落とし穴として考えることもできる。

そしりの話は7節から始まると考えたいが、7節の頭にキーがあるし、また6節に恥ということばがある。
6節からにすると5節がどうなるのかということになってしまう。
また、問題になるところは18節である。ここはもう一個の問題点である。

18節の贖いをそしりの別の言い方ということも言える。
そしりの反対はたぶん31-32節のところにあるのではないか。
侮辱されるのは、その人は貧しい人、小さい者であるからだ。

しかし、神様はそのような貧しい者をさげすむことはない。
7-12節をそしりとして考えるときに、13節の頭にヘブル語を見るとそしてがあることがわかる。
69篇の文章はそしてがたくさんあって、続いていってしまう。

ここにもそしてがあるからというとあっ、ここにも、ここにもということになってしまう。
29節の最初にそしてがあるので、前の節にくっつけて、30節から新しい段落が始まるとも考えられるのか。
16-18節を一つの段落と考えることもできるが、そうすると13節はどうなってしまうのか。

13節はすごく、16-18節の内容に似ていて、同じことばもある。
30-36節を構造化するとどうなるのか。この一つの段落の中には二つもキーがある。33節と35節にある。
30-31節で賛美せよがあって、その理由が32-33節にある。

34節に賛美せよがあって、その理由が35-36節にある。
理由のところをどのようにすればよいのか。32-33節の理由のところはあわれみであると言える。
35-36節の理由のところはシオンに住む、またシオンを受け継ぐである。

あわれみに対してはそしりであったように、シオンに住むことに対しては泥沼である。

24節の憤りを彼らの上にというのはあわれみの反対になっているのではないか。
あわれみとは怒りをおそくするということである。

25節のだれも住む者がいなくなるということで、35-36節の住みつくの反対である。
8節の近い者にばかにされるのは20節にもある同じテーマである。
パターンとしては4つあって、祈りー泥沼、祈りーそしり、怒りー荒野、憐れみー地である。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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