Subject:
69篇「水曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/02/02 11:08
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

由美ママからの質問:盗まなかったのものまでも返さなければならないのかという言い方は何なのか?

 このテーマはおもしろい、めずらしい言い方である。
 69篇を書いた人は盗んだことはある。その盗んだものは返したけれども、それ以上返さなければならないのか?
 現代の言い方で言うと買っていないものまでもお金を払わなければならないのか?ということになる。

 このテーマは聖書のストーリーで考えるとヤコブやヨセフになる。
 やらなければならないこと以上のことを要求するというのは貧しい者に対する攻撃である。
 その人が盗んだかどうかが今は問題にはなっていない。

 エジプトのイスラエルはなまけていたわけではない、わらがないからできなかったが、エジプトのリーダーはわらがなくても作れと言う。
 ダビデはサウルに対して忠実でありながらも、もっとそれ以上を要求して、飽き足りることを知らない。
 エリの息子たちは肉をくれと言って、それ以上を要求している。

 ダビデはまずいことをやったので神様にとられることはあるが、それ以上とられてしまっているという意味である。
 ダビデは自分のおろかしさによってなっていることを認めている。これは69:5節によってわかる。
 エジプトのイスラエル人ももとは問題があったので、そしられるようになった。

 相手が泥沼にいれたのではない。泥沼に自分からはいってしまった。
 取られている人は完全に罪を犯していないわけではない。

今日の通読の箇所の詩篇102篇はやたらに69篇に似ていた。
神様が御顔を私たちから隠されるとき私たちはちりに帰ってしまう。(詩篇104:29)
それに平行しているのが息を与えられるということで詩篇104:30節にある御霊を送られるということである。

拠り頼んでいる者が倒れてしまうと私たちは恥をかいてしまう。
恐れがない場所で恐れが生じてしまう。平らな場所でつまづいてしまう。
69:22-23節はローマ11:9-10節で引用されている。この話の位置づけがよくわからない。

構造の中で泥沼とそしりではない話はどのように位置づければよいのか。
69:9節は弟子たちがそれを思い出した。(ヨハネ2:17)
ここはキリストが神殿から商売人たちを追い出されたところで思い出している。

あなたの家を思う熱心が私を食い尽くすというテーマの説明は69:10-12節にある。
神様の家に住みたい、神様の家をきよめたいという熱心。
だから、民を食い物にしている者、商売をしている人を追い出す。

弟子たちはこのような人たちを見てもへんだとは思わなかった。
彼らは生まれたときからこのようなことを見ている。
断食しても笑われることではない、神殿は断食をする場所であるのに。

パリサイ人たちはかっこつけて、みんなに見られるように断食をする。
恥、そしりの反対は69篇においては御顔を向けるということである。
御顔を向けてるというのは私たちに栄光を与えてくださるということになる。

26節と27-28節に書いてあるなみなみはあやしいというマーク。
詩篇102篇の方が69篇よりも救いが近づいている。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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