+ちゃんくんです。
69篇では泥沼とそしりが強調されて繰り返されている。
泥沼とそしりの箇所はそれぞれまとめて二つある。
30-36節は前の泥沼とそしりの箇所とぜんぜん違う。
30-36節の中は賛美、理由、賛美、理由が二回繰り返されていて、平行している。
理由が二つあるが、一つは神様のあわれみ、もう一つは神様は住まわせてくださるである。
この段落は69篇の結論になっている。
30-36節の前の段落の24節には神様の怒りがあって、あわれみの反対である。
25節には荒地ということでシオンに住むことの反対になっている。
69篇と102篇の対比
69篇は実は102篇にすごく似ていた。これは水曜日の通読の時に気がついた。
102篇は問題よりも解決のほうが長い。その解決は神様はどうしてその問題を解決してくださるのかという内容である。
69篇も102篇も同じような問題にあっているけれども、どうしてその問題にあったのかは特には書かれていない。
69篇と102篇とダニエル9章の対比
102篇を69篇と対比して見たときにダニエル書9章のダニエルの祈りも見た。
その箇所を見るときにいろんなところに気がついてしまう。
ダニエルの祈りは4節から始まって、19節で終わる。
祈りの中では神様の御声に聞き従わなかったというテーマがたくさんある。
民の不面目というテーマと神様の正義というテーマが何回か繰り返されている。
祈りを分析して大きく分けて構造を考えてみると4つにわかれる。
民は主の律法に聞き従わなかったので、律法に書かれているわざわいが彼らに下った。
主の民は神様に怒りをおさめてくださいと願う。なぜなら、都と民は敵にそしられている。
さっきは民は神様の御声に聞き従わなかったが、こんどは民が神様に祈りを聞いてくださいと言っている。
主の律法は神様のしもべであるモーセと預言者たちを通して与えられたものである。
主のしもべの預言者は語る人で、神のしもべモーセは律法を民に与える人である。そして、ダニエルは神様のしもべとして、主に祈る。
主のしもべの預言者たちは御名によって神様のことばを語る。
そしられるのは民であるとも言えるが、ほんとは神様をそしっているのである。
ゴリアテのストーリーを見てもこのことがわかる。
ダニエルの9章では特に苦しみの招いた原因を神様に告白している。
ダニエルは日に三度窓をあけて、YHWHのおられるところ、神殿に向かって神様に祈っている。
ダニエルの祈りはソロモンの祈りに基づいていることはよくわかる。
ソロモンもダニエルも主に祈り終わったときにいけにえをささげる。
ソロモンの祈りは父ダビデの祈りに基づいているのである。
神様は自分のしもべであるソロモンをエディデヤと呼ぶ。
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