Subject:
70篇「火曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/02/08 11:03
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

五節の最初を困っている人が多くいた。それは5節の頭にそしてという接続詞がある。
たぶん5節の私は悩む者、貧しい者ですは前の4節のところにくっつけて考えるであろう。
色塗りの中ではっきり同じであることばはいのちを求めると慕い求める、また、あははと言うというのと神をあがめようというテーマである。

構造はすごく考えやすくて、1節と5節の平行はだれが見てもわかる。
1節と5節の平行はわかったので、2-5a節がどうなっているかを見なければならない。
2-3節と4-5a節の中にはそれぞれ二つの解決がある。一つは悪者においてで、もう一つは正しい者においての解決である。

2-3節も4-5a節もだれがどうなっているのかということを話している。
この二つの中は直接平行しているわけでもない。内容としては平行していることはわかる。
4-5a節の中で言うがもうちょっと前に入っていれば、2-3節と4-5a節はABCABCの構造に出きた。

私をあざ笑う者と悩む者、貧しい者は平行しているようには見えない。
ほんとなら、私をあざ笑う者に対しては神様をあがめるのほうがつながる。
2-3節の中のだれというところは三つあるが、内容としては二つである。

4-5aに二つしかないが、そのかわりには悩む者、貧しい者がいる。
どうなるのかという中で敵は恥を見るが、それに対して正しい者には誉れが与えられるということではない。
正しい者には誉れがあるに対しては正しい者は悩む者、貧しい者になっている。

敵は詩人のいのちを求めてくるのに、敵はただ恥をかくだけでよいのか。悪者に対する滅びはないのか。
正しい者の誉れはないけれども、正しい者に対する神様からの祝福がない。
それよりもちょっと先へ進んでしまって正しい者が神様を祝福するほうになっている。

今日の通読の箇所でもゴリアテの兄弟がイスラエルの民のことをそしっていた。
むちを打つことは恥をかかせることである。
パウロとシラスは牢に入れられてもいつも神様を賛美していた。
ステパノも同じことをされた。キリストはまさしくそうである。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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