+ちゃんくんです。
由美ママからの70篇についての質問:五節の悩む者、貧しい者の位置づけは?
69篇にも35篇にも悩む者、貧しい者という言い方が直接出てきた。
もうすぐで二巻の終わりに近い。二巻の終わりは72篇である。
40篇も一巻の終わりの一篇前の詩篇であった。70篇は二巻の終わりの二篇前の詩篇である。
2節の喜ぶと4節の正しい者はあなたにあって喜ぶの喜びということばはヘブル語を見ると違うことがわかる。
2-3節のところと4-5a節のところの内容は考えにくくて、すごくむずかしい。
何かが平行していることは確かだろう。
2-3節と同じように4-5a節も平行して書かれているわけではない。
見ればすぐわかるような直接の平行のしかたではない。
私は悩む者と貧しい者に平行する、もしくはくっついているものがないのでこの位置づけはということになる。
私は悩む者、貧しい者ですということに平行をするものを探せばわかってくるのか。
悩む者、貧しい者というのは恥をかいていて、卑しめられ、退いている人のことである。
恥と卑しめる、退きはまとめるとわざわいということになる。
わざわいとは剣、ききん、疫病である。これはダビデが受けた神からのわざわいと同じである。
ダビデはサタンにだまされて人口調査をしてしまったときに神からのさばきとしてこの三つのわざわいのうちどれかを選べと言われた。
そのときにダビデは主の手に陥るのが良いのですと言った。
私は貧しい者、悩む者に対してどのようなテーマを入れればよいのか。
何でもそれに対するテーマはいれることはできちゃう。だから、70篇に一番適しているテーマをそこに入れなければならない。
私は悩む者、貧しい者ですに対しては何とか何とかのようにというテーマがはいるはずだ。
一つ考えられるのは高く上げられる。それは退くの反対として出てきたテーマである。
高く上げられるの根拠、また、救いを見て主の御名が賛美されるの根拠は69篇の29-33節にある。
高く上げられる、また、救いを見て主の御名を賛美するというテーマは悪くない。
ただ、それが言える根拠とすべき箇所をみなければならない。
私たちは救いについてもっとよく知っていなければならないことがわかる。
40篇には69篇と似ていることばが出てくるのに、内容がぜんぜん違う。
70篇は実は40篇にまるごと入っていたので、69篇と同じように、40の中でもかっこの中のテーマを考えなければならない。
40篇の5節からで詩人は神様の奇しいみわざを見たら、みんなに告げたくて、隠すことは出きなかった。
40篇でかっこの中を考えたらたぶん、5-11節の感謝になるであろう。
普通は悩む者、貧しい者は喜ぶことは出きない。けれども喜ぶことができる。
69篇では詩人をそしる者が自分の髪の毛よりも多いが、40篇は自分の咎が髪の毛よりも多くなっている。
ダビデは自分の心にさえも見捨てられるほどになってしまった。
40篇のほうは敵は出てこない、苦しんでいるのは敵によるのは当然である。
69篇と40篇は同じ事件を違う見方で書いているだけなのかもしれない。
急いでくださいの最後の箇所は黙示録の主イエスよ。来てください。
その答えは私はしかりすぐに来る。
急いでください研究のたどりつくべき箇所は黙示録のここの箇所である。
それに対しては神様は恵みに富んでおられ、怒りはおそい。
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+審也@カンノファミリー
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