Subject:
70篇「木曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/02/10 10:52
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

イシュボシェテの名前には恥男という意味がある。
第二サムエル2:8節のクロスリファレンスではイシュバアルという意味と書かれている。
正しい者は悪者に攻撃されているときはわざわいの下にいる。

けれども40篇を見てわかるように、神様に感謝をしているときは幸いの下にいる。
私たちはもう恥について学んだことはあるが、もう一度恥について見なければならない。
もう一度恥について学ぶ理由は69、70、71に続けて出てくるからである。

72を見るとこの詩篇には悩む者、貧しい者が出てくる。また、豊かな平和という言い方がある。
聖書に出てくる一番最初の恥の箇所は創世記2:25節である。
聖書の最初から恥の戦いは世界にあった。アダムとエバはサタンに恥を教えられた。

直接そしりということばが出てくるストーリーはゴリヤテやラブシャケである。
ゴリアテもラブシャケも二人とも軍人である。
それと反対にエリヤはバアルの神々に仕える祭司たちをばかにする。

今日の通読で読んだヨエルの箇所にもたくさん恥が出てきた。
アモン人ハヌンはダビデの家来たちをばかにする。
エゼキエルにツロ、またアモンがエルサレムをばかにする箇所が出てくる。

パウロは福音を恥とはしないとローマ1:16節で言っている。
恥は具体的にその人の弱さ、貧しさをばかにすることである。
その人の弱さ、貧しさをばかにするということは神をばかにしていることになる。

サタンの攻撃の仕方は毎日、詩篇、詩篇と言いながら祈りは成長したのということである。
一番その人が大切にしているものを攻撃してくる。
サタンはどのようになったら恥をかくかをよく知っていて、攻撃してくる。

ユダヤ人を攻撃するときに、エルサレム、神様の住まれるところを攻撃してくる。
バビロンが来て、人がいなくなってしまうことが一番の問題ではない。
一番の問題は神様の住まわれる都、エルサレムが破壊されてしまうことである。

バビロンの攻撃に対する、ヨエルの答えは主はシオンに住むということである。
いくら敵にばかにされても私は神様とともに住みますという信仰を持たなければならない。
69篇にも神の家を思う年心が私を食い尽くすというテーマが出てきた。

恥をかくのは神様の御前にいない、神様の御顔の光がないからである。
放蕩の息子のたとえ話も同じである。父の家から逃げていってしまう。
神の住まわれるところの真ん中に義の王、平和の王、あわれみの王がいる。(72篇)

家から逃げていくのは自分は貧しくない、お父さんがいなくてもできるという心を持っているからである。
70篇には私たちは豊かになって、平和になるという解決はまだ書かれていない。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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