Subject:
70篇「金曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/02/11 9:44
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

今週の詩篇は全体が把握しやすくて、構造も考えやすかった。
五節の前半に悩む者、貧しい者という言い方があったので、そこは前の四節にくっつけた。
一節と五節の平行ははっきりしていて、すぐにそこはわかった。

しかし、二節から三節と四節から五節の前半のつながりはあまりはっきりしてはいなかった。
正しい者の解決は悪者の攻撃の正反対になっているわけではない。
正しい者の戦い方は、あははに対しておほほである。

今週の聖書研究の中で恥について考えた。なぜなら、69篇にも、70篇、71篇にも出てきた。
聖書の中で一番最初につかわれている恥は創世記2:25節である。
裸は悩む者、貧しい者、また何も持っていないことをあらわす。

アダムとエバは裸であるのに、それが恥ずかしいと思わなかった。
それは、自分が弱い者、貧しい者であり、何も持っていないことを悟っていたからである。
アダムとエバが裸が恥であると知ったのは、サタンにおまえは神であると言われたからである。

ヘンリー五世の敵であるフランスの将軍は負けたときに「恥だ。恥だ。」と泣く。
アダムとエバが神様にあわれまれたのは、いけにえをささげたからである。
いけにえは、神様の愛、恵みを信じますという行為である。

また、アダムとエバは神様のあわれみによって、エデンの園から追い出された。
もう、神様の御前で罪を犯したので、神様の栄光を受けられる者ではなくなった。
弱い者、貧しい者をばかにすることはその人の信頼している神様をばかにすることである。

69:2-33節のところは70篇の悩む者、貧しい者のところに直結している。
幾千の幾万の国々の民がエルサレムを攻撃しているので、その攻撃に対して戦わなければならない。
最終的に幾千、幾万でなければならないユダが彼らに対して勝利を収めた。

その戦いの解決は主がシオンに住むということである。(ヨエル3:21)
70篇は第二巻の終わりの方で、40篇は第一巻の終わりの方である。
40篇の前半と69篇には同じことばがたくさんあるのに、内容は全然違う。

大いに祝福されて、王の前に行けるということはすごいことである。
私たちは王のことをよく知らないので、それがすごいことであることをあまりわからない。
もし、くーにーがイギリスの王様の前に呼ばれたら、その呼ばれたくーにーのところにたくさんの人がくる。

有名人がいっぱいいるところに無名のくーにーが来て、王様がまだ遠くにいるのに、すごく喜んで手をふっているいるのを見ると有名人たちはどうしたのかとくーにーのことを見る。
ペテロはキリストを三回も恥としてしまった。それと反対にパウロは福音を恥とはしないと言う。
弟子たちが互いに愛し合うことは新しい戒めである。だからこの戒めは詩篇には書かれてはいない。

この戒めのすぐあとにキリストはペテロにあなたは三度私を否定しますと言われた。
キリストとペテロは反対のことをする。御父を知っているのは御子しかいない。
ペテロはイエスとは反対に私はイエスを知らないと言う。

御子は御父のところへ行く。ペテロは御子の行くところにいっしょについて行くと言う。
ペテロは頭の中ではこれが祝福であることをしっている。
神様を知っている人、愛している人は、神様の命令を守っている人であるかどうかでわかる。

御父、御子との私たちの関係をだめにしようとしているのがサタンの恥の攻撃である。
正しい者が神様を喜ぶことによって、正しい者たちが互いに喜ぶことは御子が来たときに明らかにされた。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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