Subject:
71篇「水曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/02/16 10:57
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

構造を考えるときにあきらかに平行しているとわかるところは1-4節と12-15節である。
全体の構造はキアスマスになっていて、ABCACBになっている。
敵が神様を見たときと、正しい者が神様を見たときの見方が違う。

敵がいるときは正しい者のところに神様がいないかのようである。
敵が恥を見ているときは正しい者は賛美して神様に守られている。
神様はほんとは敵の口の攻撃から守ってくださるはずなのに、守ってくださらない。

このようなときに正しい者は恥を見てしまうのである。
若いときもというのと、年老いたときもというのはずっと、生きている間という意味である。
生きているときとは永遠である。死ぬことはぜったいにない。

悪者に攻撃されているときでも、敵が恥を見ているときもかわらないことは賛美である。
苦しいときも一日中賛美していて、一年中、人生中ずっと賛美している。
悪者の口の侮辱に対する正しい者の攻撃は賛美である。

今日の通読で読んだ詩篇には109篇には恥が出てきた。
敵が着ている洋服は全部恥である。
71篇についての絵は二つあるが、敵が攻撃している方は前半の絵である。

実は71篇には憐れみということばは直接書かれてはいない。
義と書くと意味がわからないので、憐れみと書いてある。
救いは神様の憐れみである。死んでいても神様は正しい者を生き返らせてくださる。

神様の義とは神様は貧しい者、弱い者を憐れむということである。
自分よりも劣っている者を神様は良いものとして、宝箱にいれてくださる。
ゴミのような私たちを神様の大切なものとして宝箱にいれてくださる。

悪いことをしないということが善であるともいえるが、もっと大切なのはそれではない。
神様の命令に従うというのは、神様の憐れみに拠り頼むことができるからである。
罪というのは神様の命令を従わないことだけではない。

神様の憐れみを知らないので、自分たちに全部をくれ神様にこれをくれないと文句を言う。
義と言ったときに、ただ義認のことだけを考えてしまってはならない。
正しい者の戦い方は悪者が侮辱してきても直接はその敵には答えていない。

だからと言って、その敵を正しい者は祝福してはいない。
あなたは罪を犯していると言われたときに、神様に罪を赦してくださった方に感謝しなければならない。
この世で言うと、攻撃されたときに、その敵の立っているぜんていに立って答えてしまう。

それもやらなければならない。問題はそれを一番としてしまうところである。
聖書を学んでいると病気にならないのか。詩篇に書かれているではないかと攻撃してくる。
悪者は穴を掘っている。正しい者が穴に落ちるとは神様に対する賛美をやめてしまうことである。

悪者の攻撃は神様に対する侮辱である。だから、正しい者は賛美をしなければならない。
ハヌンが行ったダビデの家来たちへのはずかしめは、ダビデへの攻撃である。
まず、悪者が攻撃するのは女子供や、年老いた者である。
悪者は神様が見えないので、その見えるその人の宝を攻撃する。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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