Subject:
71篇「木曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/02/17 10:51
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

正しさが憐れみであると言える箇所はどこにあるのか。
しかし、正しさが憐れみであると言われるならばそれはそうであるとわかる。
今日は新約聖書において71篇を学ぶ日である。

白本でも義は憐れみであると言われている。
神様は憐れみであるという言い方は出エジプト記34:6ー7節を見ればわかる。
レビ記19章を見ればわかるように憐れみはきよさにつながっている。

19章はレビ記の中心である。その中心はきよさである。
聖書の中にはこれだけしか言ってないかのように、たくさんありすぎる。
ルツは聖書の中で有名なやもめである。ボアズはやもめの律法に従って彼女を助ける。

今日の通読で読んだアモン書にはあなたがたは貧しい者を憐れまなかったと言われてる。
惜しまずに人々に与えることは主に喜ばれることである。
神様が惜しまずに与えてくださった愛に感謝して、人に与えるときに、神様に対する感謝が与えられる。

第一ペテロ3章では善を行うことと義ということが同じであることがわかる。
義のために生きるとための土台がここにある。
マタイ25章にはギリシャ語のことばはないが、ストーリーとしては同じことである。

悩む者、貧しい者を憐れむ者は永遠のいのちを得、天の御国に入ることができる。
聖徒たちの正しい行いが花嫁たちの麻布である。(黙示録19:8)
神様はこの世の貧しい人を選んで、信仰に富む者とされた。それなのに、この世で富む者はその人をしいたげる。

あなたの隣人をあなた自身のように愛するというのは最高の律法である。
これを守る者はりっぱな行いをしている人である。
きよい、汚れのない宗教は貧しい者を憐れむ。

詩篇から見た新約聖書であるイザヤ58章を見なければならない。
このイザヤの箇所の成就がマタイ25章である。
イザヤ60章でも義と憐れみがいっしょに出てきている。

119篇にもたくさん義が出てくるし、先々週やったダニエルの祈りにも出てきた。
義が聖書の中に出てくる一番最初の箇所はノアのところである。
今日は聖書研究の時に詩篇、箴言、新約聖書から続けて義を見ればよいのではないか。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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