Subject:
71篇「金曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/02/18 10:38
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

今週の詩篇は長いので、全体像を把握するのがむずかしい。
構造を考えるときに12-15節が真ん中になるのではないか。
先週の70篇のときと同じように71篇のときにも絵を書いた。

そのちょっと違うところは70篇は正しい者は神様の外にいて賛美していた。
しかし、71篇では神様の中に身を避けるということなので、中にいて賛美している。
義といったときにわかりにくいので憐れみと書いたが、そうするとやさしいほうだけしか考えなくなってしまう。

敵に対するさばきがなければあわれみは完成しない。
書き方としては神様の義というほうがあっている。
敵は71篇の中で恥をかかせようとしてくるが、その中で正しい者がしていなければならないことはいつも賛美である。

私は一日中賛美しているという言い方が三回も出てきた。(8節、15節、24節)
それに対して若いときも、年老いたときも一生中私を見捨てないでください。
神様は自分のために何かをしてくれるかを望んでいるのではない。

いくら部屋をきれいにしたとしても喜んでやっていないのならば怒られる。
喜びのあるしもべは神様に喜ばれるが、文句を言っているしもべは忠実ではない。
義といったときに一番大切な正しさは小さい者、弱い者をあわれむことである。

弱い者、貧しい者をあわれむものは最終的に報いとして永遠のいのちを与えられる。
70篇と71篇はすごく似ている。わざわざ別に書くための理由があるのか。
70篇と同じものが71篇にはいっている。12-15節である。

71篇にはだいがないので、70篇と同じ詩篇ではないかという人もいる。
70篇に出てこなかった大きな一つのトピックは問題に対して私は何をするかである。
神様の義は岩で、かえられることなく、真実である。

-------------------------------------
+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
-------------------------------------