+ちゃんくんです。
今日の通読の箇所の詩篇111-113篇には似ているところがたくさん出てくる。
111篇の内容と112篇の内容は同じなのに、行っている人が違う。
111篇は神様について話されていて、112篇は主を恐れる人についてはなされている。
111篇の最後を受けて112篇がはじまる。この二つの詩篇は平行している。
113篇にはつながっているのかというとつながっているとも言えるが、111と112のほうが平行していることがあきらかである。
まわりの詩篇の内容はあまり111篇と112篇の内容とは違う。
111篇は神様のみわざについて話していて、112篇では義は永遠に堅く立ち、栄光かされるということが話されている。
18節は111篇の内容をあらわしていて、19節は112篇をあらわしている。
1-4節にするときに5節はどうなるのかということになる。5節は前にもうしろにもつけることができる。
15節を前につけて、5節も前につけて考えるときに6節と16節は牧草地からはじまると考えることもできる。
しかし、問題になるところがある、それはシェバの王たちはみつぎを納めるというところである。
シェバとはどのような意味があるのか。シェバはベエルシェバのシェバと同じ意味なのか。
シェバはにはいくつかの意味があって、一つは七という意味である。
シェバの金という言い方はイザヤ60:6に出てくる。ここは72篇そのものである。
クシュの子孫がセバで、ラマの子孫がシェバである。(創世記10:7、第一歴代誌1:9)
構造を考えるときに5節がすごく問題となってしまう。
1節に出てくる公正を王にの公正はさばきとも訳されることばである。
3節では王様に与えられている権威が山々、丘々に与えられている。
山々、丘々が民に平和をもたらすかのように訳されているが、本当にそのことをあらわされて書かれているのか。
1節は王様を選んだと言うことで、3節は民を選んだということである。
民は山々、丘々よりも上であるということになるかもしれない。
4節にはおまけとしてしいたげる者を打ち砕くという話がはいっている。
ソロモンは遊女たちをさばくだけではなくて、ヨアブもさばかなければならない。
その中で得に正しい王様と言ったときにしょうてんをあわせて、貧しい者をさばくと言っている。
貧しい者はお金がなくて、何も食べられないのに、殺されるかもしれないといって逃げなければならない。
しいたげる者たちに迫害されて、殺されてしまっている。これより大変なことはない。
ダビデの人生を見ればわかるように、ダビデはきちがいのまねをするまでもして逃げていた。
貧しい者たちの解決は迫害から救うことである。王様は神様に同じようにされたので、よく民の状態を知っている。
1-4節と12-14節と同じように、5-11節も15-17節もいっしょに見なければならない。
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+審也@カンノファミリー
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