Subject:
73篇「水曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/03/02 11:42
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

73篇から何を学ばなければならないのか。何をわかったらよいのか。
由美ママからの質問:なぜ73篇は接続詞から始まるのか。73篇のこまかい対比のつながりはどうなっているのか。
なぜ12節をあとにつけたのか。内容は11節につながっているのに。
73篇に出てくる問題はよくある。悪者が栄えているかのようで、正しい者が栄えていないかのようである。

この問題は正しい人におきる問題である。(善と悪が正しく区別されていない)
アサフはふみとどまったから神様に救われたのではない。解決は23節にある。
神様は右の手でしかっりつかんでいてくださったので救われた。

アサフはつかんでくださった方から逃げようとしたのではないが、すべりそうである。
死の陰の谷を歩むときにキリストを見て歩めばよいのに、下を見てこわがってしまう。
神様が行ってくださっていることとあらわれていることが違っているというのが問題ではないんですか。

下を見るときにこわがってしまうというのは不信仰とも言えるが、キリストがいるから下を見てもこわくないというのはまちがった信仰で、不信仰ということになる。
下を見てもこわくないというのはわかっていないということになる。
アサフを簡単に不信仰と片付けることはできない。

有名な人で行くと73篇の問題になっているのはヨブである。
ヨブはこの問題にあったときに、神様の主権は悟っているが、その主権は直接愛につながっているということは悟っていない。
ヨブほど潔白で正しい人はいないのに、サタンはその人に目を留めたのかと神様に言われる。

友達はおまえは高ぶっていたのではないかとヨブに言ってくる。
1節に出てくる心のきよいのきよいは24:4節に出てくる心がきよらかなものと同じである。(ヘブル語でも同じ)
7節に出てくる脂肪は悪い意味で使われているが、良い意味の脂肪と同じことばである。

いけにえの脂肪は神様にささげる一番いいところである。
脂肪は重くて、イカボデという名前の意味と同じである。
27節の不誠実というのは姦淫ということばと同じである。神様に対して姦淫を行った。

17節は悟ったぞというターニングポイントかのように解釈する人がいる。
最初はそこをターニングポイントとして考えようとしたが、24節にも同じことばがある。
第三巻の中心は聖所の話で、73篇も聖所についてしか話されていない。

第三巻を倫理と考えることもできるが、倫理と言ったときに善と悪の話になってしまうが、第三巻の場合では倫理と言ったときにきよさとして考える。
盗むというのは神様が決めてくださった基準を変えて、自分で基準を決めてしまうということである。
十戒の第3戒の主の御名をみだりに唱えてはならないというのはきよさの話である。

第三巻では神様の聖所は敵に汚されているという祈りが多い。
第二巻を考えるときに礼拝と言って考えるが何が礼拝なのかあまり意味がわからない。
ダビデの詩篇ぽい祈りが多い。ダビデが栄えてからの話ではなくて苦しんでいるときの話である。

契約の五つのポイントにおいて詩篇の五巻を見ることはできるが、モーセ五書のほうがつながりがわかりやすい。
出エジプト記は出エジプトのストーリーが中心ではなくて、礼拝制度の話が中心である。
礼拝のために神様はイスラエルをエジプトから連れ出された。

出エジプトのストーリーはまずイスラエルを礼拝に行かせてくださいというところから始まる。
モーセ五書と詩篇の五巻はつながっているということは言われているがだれがそれを言ったのかはわからない。
なぜなら、あまりにもはっきりしすぎてて、昔から言われている。

73篇のひっくり返しになっている37篇では悪者が栄えているのを拒むなと言われている。
内容がひっくり返しになっているのではなくて、数字がひっくり返しになっているという意味です。
37篇は長いのもあるし、それに同じテーマが何回もくりかえされているので目がまわる。

ダビデは悪者が栄えているときには強いが、自分が栄えているときにすべりそうになってしまっている。
ダビデは悪者が栄えているときにすべりそうだとは直接は書かれていないが、すべりそうだというのがわかるのは、37篇の祈りを歌っているからだ。
49篇も37篇に似ている。悪者はこの世では富んでいても死んだらそれを持って行くことはできない。

だから、私たちはこの世ではなくて、天に宝をつまなければならない。
このようにいくつかの詩篇を見てくればわかるように73篇に出てくる問題はよくある。
この問題を見るときに疑問をもつはずである。律法に書かれている反対になっている。

73篇は1篇と2篇がひっくりかえっていると言われる詩篇である。
これはこんどは数字がひっくりかえっているのではなく、内容がひっくりかえしになっている。
1篇では正しい者が栄えている。2篇は主に身を避ける人は幸いであるで終わる。

エレミヤ12:1でエレミヤは直接神様に聞いてしまう。あなたは正しいのは知っているが、一つ聞きたい。なぜ悪者は栄えているのか。
エレミヤはこの問題においてこまっている人である。聖所が滅ぼされてしまう。
悪を行っている人のほうが栄えて平和になってしまっている。

悪者が栄えているのは私たちから見ると長く見えるが、神様から見るとそれはちょっとである。
私たちがなぜずっと悪者は栄えているのかと神様に訴えると神様の答えは私はすべて知っているという一言である。
キリストのたとえに出てくるように、悪者は栄えているかのようで、何も病気もないのに次の日に死んでしまう。ルカ12:16-21

伝道者の書で神様を恐れ、神様の命令を守ることが人間のすべてであると言われている。
神様が悪者をすぐにさばかれるというのは聖所で知ることができる。
16節の意味はこれを知ろうと思いめぐらしたが、聖所にはいるまでは知ることはできなかったということになるのだろう。

13節の心をきよくする、また手を洗ってきよくするというのは24篇をあらわしているのだろう。
9節に天と地があって、25節に天があるが、そこのつながりはあまりよくわからない。
9節の口を天にすえるというのはごうまんということをあらわしているのだろう。

25節の天は高ぶっている話の天ではないので、9節とはちょっと意味は違う。
悪者は自分たちは一番の高きものであると主張している。
カルヴァンも1節は接続詞ではじまっていいのかと言っている。

1節の接続詞は第二巻を受けているとは考えられない。
なぜなら、第二巻と第三巻の本はまったく別物であるから。
もし1節がなぜなら(キー)ではじまっていたらそれは不自然である。

昨日の聖書研究でも1節にある接続詞と言われるアフについて調べてみた。
やっぱりこれは接続詞であるのであろう。カルヴァンも接続詞だろうと言っている。
73篇を見たときに聖書の一番最初のストーリーを思い出さなければならない。

自分の前にすごくおいしいごちそうがだされている。これは食べないためにつくられたのではない。
いつかは食べるはずであった。サタンは神様はこれを食べたら死ぬと言ったのと攻撃してくる。
心のきよい人と言ったときに何かをしないとか考えるが、御霊がすんでいる人と考えればよい。

士師記に出てくるエグロンも脂肪ですごくて、殺したときに剣が脂肪で隠されてどうやって死んだのかだれもわからなかった。
エバがサタンにだまされて実を食べたとき、アダムの目は脂肪でふくらんでいた。
詩人であるアサフは悪者が栄えているのを見てすべりそうだったが、いつも神様がささえてくださったので、神様の近くにいることができた。

最初正しい者はすべりそうだったが、神様は右の手でその人をささえられ、悪者をすべりやすい所におかれた。
17節の聖所に入って悟ったというのが73篇のターニングポイントだと言いたいのもわかる。
神様はあわれみ深く、いつくしみ深い。怒るにおそく恵みとまことに富んでおられる。

神様は永遠に善である。ハレルヤ。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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