+ちゃんくんです。
■なぜ、23節は私の右の手をつかんで救われたという言い方になっているのか。(和也)
神様は右ききで、右の手をつかんで救うというのは手をつないでいるという意味ではない。
だから、神様の顔とその人の顔は見合っていることになる。
右の手と言ったときに、神様が右の手で救ってくださるということを連想しなければならない。
右の手はさばきのことをあらわしている。神様は右の手にさばきの錫を持っている。
■20節にある目ざめの夢のようにという言い方はどのような意味なのか。(くーにー)
寝ているときには夢の中で何かが起こっているが、目がさめたらそれはただの夢かということになる。
悪者が栄えているのは神様のさばき来るとただの夢だったのかということになる。
またたくまに滅ぼされるという言い方を別のことにおいて表現している。
最後のさばきがすぐに来ないというのが73篇の問題である。
黙示録の最後でもキリストは私たちに言われた。私はしかりすぐに来る。
ヨナのストーリーを見るときに問題となっているのは悪者が栄えるのがやだということではない。
ほんとはイスラエルに与えられるはずのみことばが異邦人に向けられてしまっている。
そうすると、イスラエルが神様に捨てられてしまうことになる。
ヨナの時代にニネベは栄えて、平和で富を増していた。私たちは神様はいらないと言っている。
そうしたら、ヨナによって神様は言われた。そんな富は突然のさばきによって、滅ぼされてしまいます。
このときにニネベの人たちはイスラエルがすべき悔い改め方をした。
ニネベの人たちは平和で栄えているので、四十日間はすぐである。
ということで、ヨナのストーリーで問題となっているのはイスラエルが捨てられてしまうということである。
悪者が栄えているのを見て、すべってしまったのはロトである。
ソドムとゴモラは神様にすごく祝福されている地である。ロトはこの世の地の富を見てその地を選んでしまった。
もし、ロトがソドムとゴモラにひっこすころにすごく悪ければアブラハムはそこにひっこすこをゆるさないはずである。
ということはあまり、そのときはソドムとゴモラは悪くなかったことがわかる。
何年いたとは書かれていないが、だいたい二十年ぐらいいただろう。そすればだらくすることはできる。
エジプトのイスラエル人も同じである。エジプトの祝福のほうを選んでしまった。
■16節のこれというのはどのような意味なのか。(契也)
これといういいかたについてはいくつかの訳がある。
■28節に出てくるすべてのみわざは具体的に何なのか。
あなたのすべてのみわざを語るというよりも、神様のわざのすべてを告げるというほうが訳としては正しいのではないか。
■21節の内なる思いが突き刺されたときというのの意味は何か。(みわざ)
なぜ、正しい者に苦しみが来るのかというのが73篇のポイントではない。
73篇のポイントはなぜ、悪者は栄えているのかということである。
自分が苦しんでいるかどうかで詩人はすべっているのではない。
他の詩篇にはなぜ、神様は私を見捨てられたのかという祈りはある。
73篇を覚えてしまうのは、悪者が栄えているのが問題になっているからである。
心のきよい人に対しては73篇の中では獣のような自制のできない人になるのではないか。
不誠実な人を心のきよい人と対比してもいいけれども、愚か者と対比させたほうがよういだろう。
愚か者は自分をグッドとはしてない。富と栄光をグッドしている。
だから、悪いやり方でも、良いやり方でも金持ちになれればそれでいい。
この世の人たちもやる。もしお客様に仕えてもうかるならば、お客様に仕える。
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+審也@カンノファミリー
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