Subject:
73篇「金曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/03/04 10:43
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

73篇の問題はエレミヤ12章1節に書かれている。
正しい者が受ける問題は詩篇、聖書の中で二つある。
一つは悪者が栄えている。もう一つはヨブのような問題である。

73篇に書かれている問題はヨブの問題とは違う。また反対になっている。
私たちの時代を見るときに73篇の問題をすぐにおちいてしまうことがある。
ヨブの問題はなぜ正しい者は問題に合うのか。私に問題を与えても何があるのですか。私をほっといてください。

ヨブはこの問題にあったときに、神様が愛をもってやっていることをまだ悟っていなかった。
73篇の問題は意図的に自分から神様に反逆してやろうと言って、罪を犯しているのではない。
聖書の中ではロトのようなストーリーであることがわかる。

第三巻は契約の三番目をあらわしている書物で、契約の三番目は何と言われたときにレビ記を見ればよい。
レビ記は神様のきよさをあらわす書物である。きよさは一番聖所であらわされる。
聖所は神様の名がつけられている場所、A House for my name。

73篇の構造は考えやすそうだが、いろいろな対比があるので思ったよりもむずかしい。
だから、まず構造を考えるためには対比と同意語、反意語、接続詞を見なければならない。
73篇を見たときにびっくりするのは1節は接続詞ではじまっている。

私たちはすべりそうになったときに、神様の右の手をつかんだから救われたのではない。
神様が私たちの右の手をつかまれたので、私たちは叫んでいてもすべることはなかった。
いろいろな注解書を見ても17節をターニングポイントとして考えている人がいる。

そのような考え方はできるが、17節と同じことばは24節にもある。
13-17節は私は最後のさばきを悟っていませんでしたというのがポイントになっている。
私は聖所にはいって最後を悟ったというのがポイントではない。

37篇も73篇と同じ問題が出てきている。悪を行う者に対して腹を立てるな。貧しい者は地を受け継ぐからである。
貧しい者は地を受け継ぐという言い方はマタイ5:5節(山上の説教)と同じ言い方である。
37篇、73篇と同じように49篇も見なければならない。(富を得ても悟りがなければ滅びうせる獣に等しい)

伝道者の書でも73篇のようなテーマがあつかわれている。
私たちが悪者が栄えているのを見て、すべらないためには、いつも聖所で神様を賛美しなければならない。
最後のさばきといったときに、歴史の終わりのさばきを考えると思うが、その間にあるさばきもあらわしている。

十字架のさばきは最後のさばきのひな型である。
ダニエルはこの世の富と、平和が与えられているが、いつもエルサレムの聖所がある場所に向かって祈っていた。
ダニエルは自分のことを正しくダニエルしていた。(ダニエル、ダン、審也:さばき)

73篇ではまたたくまにということばにも特別な意味があった。
神様のさばきが行われるときに、悪者は栄えていたようだが、すぐに彼らはすべって消えてしまう。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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