Subject:
74篇「火曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/03/08 11:04
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

カンノパパは今回の構造は大きくわけて二つにした。1-17節と18-23節。
構造を考えるときの手がかりとなる節は何節か。
また、内容として同じことを言っている節は10節と18節である。

18節は22節とも同じで、19節は23節に似ている。
2節と12節は平行している。あなたは昔からの王ではないんですか。私たちは昔からの民ではないのか。
74篇には二つの場所で問題がある。聖所(牧場)と地上である。

1-9節は聖所で問題がおきていて、10-17節は地上で問題がおきている。
そして、18-23節は民の救いについて話されている。
聖所が敵によってそしられて、ぼろぼろになっているのは民へのさばきであることをあらわす。

74篇の問題はいつまで神様はさばきのために帰ってこないんですかということである。
前半1-17節には平和がいなくて、後半18-23節にはさばきがいない。
この詩篇を読んだときにめずらしいと思うのは、国々の話を先に言わないで、聖所の話を先にいっている。

2節と18節と22節のことばはザカール(覚える)ということで同じである。
19節と23節の忘れないということばはザカールではなくて、また別のことばである。
どの詩篇もメサイアにあてはめて読まなければならない。

メサイアの詩篇と言うときに、普通は直接キリストに成就されたことを言っている。
民はメサイアと一つであるという契約もある。民の苦しみはメサイアの苦しみである。
手紙の中で詩篇が直接引用されてたりするが、その詩篇は他の詩篇より大切かというとそうでもない。

ある節を引用するときにそれはその詩篇の中で一番大切な節なのかというそういう意味でもない。
直接引用されているほうが、直接引用されていない詩篇よりも偉いとかそうわけではない。
74篇をメサイアであるキリストは祈られた。(直接引用されてはいないが)

直接成就されているところはもう私たちにはわかっているので、わざわざ私たちは見ることはしない。
例えば酢を飲ませましたというのを成就されているところで見るよりもその詩篇、また聖書の中でどのような意味なのかを見る。
新約聖書の中で一番引用されているのがイザヤと詩篇である。

新しい時代には古い時代に歌われていた歌しか歌わないわけではない。新しい歌も歌う。
黙示録で大バビロンは倒れたと言って、喜んでいるのは74篇の反対のように見える。
大バビロンと言われる者たちは神様から離れた聖所であるので、倒れたときに喜ぶ。

王様の救いは民全体の救いになる。王様が救われたということしか言われていないので、民は救われていないというわけではない。
神様は御国の王様と言ったときに、治める者ということをあらわしていて、王だけではなく大祭司でもある。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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