Subject: 詩篇74篇 そしり(将) |
From: Shou Itou |
Date: 2005/03/09 8:15 |
To: "+saiwai.net" <saiwainet@yahoogroups.jp> |
こんにちは、+イトウショウです。 詩篇74篇10節と18節にある「そしり」についてみました。 この言葉をヘブル語で探すと、最初はレビ19:20であり、今回の詩篇はあまり関 係がない。その箇所にはこう書かれている:「男が女と寝て交わり、その女が別 の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えられ ていないなら、彼らは罰せられる。女が自由の身でないので、彼らは殺されな い。」この箇所で「そしり」に値する言葉は「決まっている」とフレーズである。 次にこの言葉が出ているのは士師記5:18で、デボラの歌の中でゼブルンとナフタ リについて使われている。そこでは「ゼブルンは、いのちをも賭して死ぬ民。野 の高い所にいるナフタリも、そうである。」と書かれており、「いのちをも賭 す」というフレーズがそれに値する。 その次は士師記8:15に出てくる。その箇所ではギデオンが、自分をそしったスコ テという町の人々に対して、そのそしりの報いをしている。 第1サムエル記17章では、イスラエルの人々がゴリヤテについて、イスラエルを なぶるために来た人であると話している。そしることの大原則は、悪者が正しい 者をそしるということであり、もちろん詩篇74篇においてもそうである。ゴリヤ テはイスラエルの軍に対して戦いを挑んでおり、イスラエルの地を汚す存在であ る。それに対して、ダビデは主に祈りながら彼と戦ったので、その祈りは聞かれ て、ゴリヤテは倒れた。 第2列王記19:4にも出てくる。その箇所では、イザヤがヒゼキヤに、イスラエル をそしっているアッシリヤ軍のラブ・シャケは主が遣わされた者であると語っ て、イザヤはヒゼキヤに主に対する祈祷をささげるように命ずる。74篇のアサフ も、主に見捨てられて、おまけにイスラエルの聖所がけがされて預言者もいない という、ヨブのような裁きを受けているとき、祈りを捧げている。-- Shou Itou E-Mail: shou_itou@parkcity.ne.jp