Subject:
おまけ(2005年3月9日)
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/03/09 10:33
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

由美ママからの質問:今週の日曜日の説教で69篇を特に取り出して、メサイアの詩篇として有名だと言ったのか?
69篇を学んだときにはメサイアの詩篇として見なかったのではないか。
詩篇はいくつかのジャンルにわけられる。

グンケルという人が詩篇をいくつかのジャンルにわけた。
ジャンルー感謝の詩篇、嘆きの詩篇、悔い改めの詩篇、知恵の詩篇、王の詩篇...
グンケルさんの後の時代の人はほとんどジャンルに分けて詩篇を説明する。

ジャンルにわけて詩篇を見ようとすると、わかりやすそうだが、うまくはまらなくなる。
王の詩篇はほかの感謝や嘆き、悔い改めの感情とは違っている。
王の詩篇と言われる一番最初の詩篇は2篇である。

メサイアの詩篇と言ったときには普通は直接成就されているところのことを言う。
例えば:酢を飲ませたというのは直接キリストが十字架上で成就した。
直接成就されているというのがわかるのは、直接引用されているからである。

ある人は旧約聖書が直接引用されているのは全部で1200回だと言う。
その中でも多いのが創世記と詩篇、またイザヤである。詩篇は全部で104回引用されている。
直接成就、または直接引用されているところはメサイアの詩篇と言われて、その直接引用がないところはメサイアの詩篇ではないのか。

メサイアと民は一つである。メサイアの祈りは民の祈りで、メサイアの救いは民の救いである。
この契約は私はあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となるという言い方と同じである。
王様万歳と言って、民万歳とは言わない。だからと言って民が関係ないわけではない。

この契約をちゃんと把握しているならば、すべての詩篇がメサイアの詩篇であることがわかる。
メサイアと言ったときに、私たちは個人的なことしか考えない。
メサイアは一人ぼっちではない。偉大な王様のように見えても民がいなければそれは偉大ではない。

詩篇全体の祈りは神の国の福音である。
神の御国は来たというのは見よ。神の子羊というのとイコールである。
聖所が廃墟となっているのを見るときに、子羊のことを考えて嘆く。

直接引用されているところは直接引用されていない詩篇よりも偉いわけではない。
酢を飲ませましたというのは69篇の中で一番大切な節ではないことも知っている。
私たちは直接引用されていないのに、気がつかなかったりすることがある。

あまり、有名ではない箇所のこまかいところまで成就している。
今日の通読の箇所を読んでもメサイアの詩篇について考えることができる。(詩篇118篇)
118:26節はルカ19:38節を思い出さなければならない。

38節のクロスリファレンスを見るときにそこは直接引用されていることに気がつく。
ルカ19:38節を読むときに何かここは聞いたことがある言い方だなということに気がつく。
それはルカ2:14節である。よく見るときに19章と2章は反対になっていることがわかる。

19章では弟子たちが歌っている。2章では天の軍勢が歌っている。
このように見てくるともう一つ気がつく。創世記1:19-20節である。
アブラムが戦いから帰ってきて、メルキゼデクに祝福されている箇所である。

メルキゼデクはメサイア・キリストのひな型であるとヘブル書で何回も言われている。
このように見てくると118:26節はメサイアの祝福の箇所であることがわかる。
ただ、118:26節を見るとここはメサイアの詩篇だとは言わない。

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+審也@カンノファミリー
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