Subject:
74篇「金曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/03/11 10:18
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

今週の74篇は先週の73篇とはぜんぜん内容が違う。同じ詩人であるのに。
先週の問題は敵が栄えて、私はすべりそうというところだった。
今週は神様のさばきが敵に下っていない。聖所が荒らされている。

最後のさばきが敵に下るのではなくて、自分に下ってしまっている。
73篇では聖所に入ったら敵の最後を悟ったのに、74篇では聖所にさえ入ることができない。
ノーマンガイスラーという人はモーセ五書は詩篇の五巻にあてはまると言っている。

この人が初めて言ったのではなく、前から言われていたことを引用してまとめただけだろう。
私たちが見てもモーセ五書が詩篇の五巻にあてはまるのはわかる。
敵は聖所に対してあらゆる害をくわえている。何でもやりたいことをしている。

13節は特に海をわけ、荒野の民のえじきとされたというのは出エジプトのストーリーである。
10-17節は出エジプトのストーリーのことをあらわしているが、想像すべきのは創造のストーリーである。
創造は神様の救いをあらわす、右の手のわざである。

神様が行われたすべての右の手のわざをわざわざこのちりにすぎない私たちにくださった。
創造には目的がある。問題が来るときにその問題が果たせないようになるが、神様はそこから戻して再創造できるようにしてくださる。これが救いである。
キリストは私たちの救い主である。油注がれた者、メサイア。

問題から救われた宝の民は何をするのか。その答えは21節にある。御名の賛美。
御名を賛美するためには神様の敵に対するさばきが行われなければならない。
聖所については1-9節の前半にしか出てこない。御名を侮るは後半にも出てくる。

問題のほうが長く話されていて、解決の方は問題のようにはたくさん書かれていない。
聖所は礼拝する場所、御名をほめたたえる場所であるのに、敵は入ってきてそこで御名に対してほえている。
怒りについて申命記、出エジプト記からクロスリファレンスを通して見た。

怒りは契約ののろいで、もし、神様の命令を守らないならば、怒りがその人の上に下る。
御怒りを見ていくときに哀歌を見なければならないことがわかる。
哀歌の問題はまさしく74篇である。哀歌の最後のことばはあなたはいつまで私たちをお忘れなのですか。

74篇の祈りは新約時代ではさかさまで成就されている。
黙示録では都が滅ぼされたことで喜びなさいと言っている。
ほんとは神様の牧場であったはずが、それが強盗の巣になり、バビロンになってしまった。

エレミヤの哀歌はソロモンの神殿が破壊されるときのことを語っている。
その後にエズラとネヘミヤがつくって、その後にヘロデがつくり、AD70のさばきにその神殿がこわされる。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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