Subject:
75篇「水曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/03/16 11:35
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

ハンナの祈りのように救い主のことを角として表現しているところはその前にはない。
このの祈りを読むときに不思議には思わない。でも不思議である。この時代には王様はまだいない。
彼女はは士師記の時代に祈りをしている。神様が王様であるという時代に。

第一サムエル二章を読むときになぜメサイアを角であると知っていたのかという疑問が出てくる。
油注がれた者の一番最初はアロンである。大祭司アロンは油注がれた者である。
エポデは祭司だけが特別に着るものではない。正式に礼拝をする人がエポデを着る。

大祭司はエポデの中でも一番よいものを着ているのではないか。
人が死んだときに亜麻布を着させる。大祭司はあせをかかないために亜麻布を着る。
キリストは生まれたときに亜麻布を着ていた。死んだときも亜麻布を着せられた。

黙示録には亜麻布に似ている衣ということばが出てくる。聖徒の行いはきよい衣である。
亜麻布の一番最初はヨセフである。(創世記41:42)
サムエルの父エルカナはエフライムに住んでいるレビ人である。

レビ人でなければサムエルみたいに神殿の中にまではいっていくことはできない。
だから第一歴代誌六章のレビ人の系図を見るとちゃんとサムエルがその中にいる。
ギデオンは偶像礼拝のためにエポデを持ってこさせた。サウルも同じようにする。

神殿にあるパンは祭司しか食べてはならないはずなのにダビデは食べた。
しかし、ダビデは怒られない。あわれみの律法であるので、お腹がすいている人にあげる。
そのパンをあげてのは他に手段がなかったからである。他に手段があるならばそうはしない。

エリは大祭司であるけれども、第一サムエルでは祭司という。
ハンナの息子サムエルはナジル人であるので、連想すべきなのはマノアの妻とその息子サムソンである。
もし自分の子をナジル人として神様に一生ささげるならば、その家族を受け継ぐものはいなくなってしまう。

マノアの妻はイスラエルがペリシテ人から救われるように頼んでいるが、ハンナは誰から救われようとして願ったのか。
ハンナはイスラエルの堕落からの救いについて考えて祈っていたのか。
マノアの妻の時は神様から命令を受けてそうしているが、ハンナは自分からそうする。

エフタを思い出す。もし戦いから帰ってこれたら私は人をあなたにささげますと誓う。
サムエルの子供はエリの息子と同じように悪い。それを知っているのに彼らを選ぶ。
ハンナの時代に子孫を求めるのは、私たちが子孫を求めるのとはぜんぜん違う。

75篇の詩人アサフはハンナの祈りを見てこの詩篇を書いた。
悪者に酒を飲ませるというのは、上から注ぐということである。
彼らのながした聖徒の血が彼らに報いられた。

悪者たちは私みずからさばけると思っている。彼らは柱を堅く立てようとするがその柱はベロンベロンである。
75篇では悪者の角について話していたはずなのに、10節の後半で急に正しい者の角が出てくる。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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